気がつけば、いつしか齡六十七の爺になっていた。今の世の中、まだまだ・・・という感じだし、少し上には団塊の先輩方がいらっしゃるから、まだまだ若輩(苦笑)ではあるのだが、子供の頃から思えば、いつのまにか遠くへ来たものだと。
会社を早期退職してから、はや10年あまり。最初は不安しかなかった自営コンサルタント業も、厳しい時期はあったものの、いつの間にか板についてきた。いまだ、あれこれ試行錯誤の毎日だが、それはそれで楽しい。これまでの経験とか活かして、大所高所から・・・というのが理想だが、なかなかそうはいかない。実際、ここ数年は現場に入って、あれこれ一緒に試行錯誤しながら、これまでの経験を皆さんにお返ししている感じだ。
今年はもう2023年。21世紀に入って既に20年以上が過ぎた。子供の頃に夢見た21世紀とはずいぶん違う。鉄腕アトムもいなければ、エアカー(死語)も走っていない。巨大な宇宙ステーションもなければ、月面基地もない。ちょっと期待外れ・・・なのだが、今、「日常」だと思っているあれこれを、1960年代、1970年代と比較してみると、劇的に変化していることに気がつく。その一つがコンピュータの進化だろう。当時、大きなフロア一つを占めていたコンピュータの処理能力と容量をはるかに凌駕するコンピュータがいまはポケットに入る。いや、腕時計サイズにおさまってしまうのである。このコンピュータの進化が、あらゆる物をより精密にし、不可能を可能にしている。鉄腕アトムはいないが、人型のロボットやAIは、もう少しでその域まで達しそうだ。そもそも今、65インチの大画面を前にこれを書いていること自体が当時から思えば奇跡に近い。基礎的な技術は、とっくに予想を超えている。それでも、当時のSFに及ばないのは、たぶん、「人」が進化していないからだろう。理想を追い求めるには、今の世の中は障壁が多すぎる。先に進むよりも今の利益を維持することを優先する傾向が強いことが大きな足かせかもしれない。しかし、それでも技術はどんどん進んでいく。米国のように大富豪が道楽で夢を叶えるような動きもある。そう言う意味では、そう遠くない将来、かつて夢見た21世紀が現実のものになるのかもしれない。それが吉か凶かはさておき、そのような世界は見てみたい。まぁ、あと何年、そうした知性を保っていられるかはさておき、人類の文明が技術的特異点に落ち込むまで見ることが出来ればというのが今の望みである。あと二十数年、さて・・・。
さておき、現実に戻って、今日も朝から頑張って散歩。天気が崩れる予報もあったが、今朝も快晴。気がつけば、この銀杏の木もすっかり裸になってしまった。少し先にあるモクレンの木には、こんなつぼみ。
今朝の富士山は少し霞んでいる。
この梅の木は、すでにかなり開花が進んでいる。
この茶トラは、いつもの屋根の上で日向ぼっこ中。
朝のうちに3千歩強を歩いて、朝飯。それから昼過ぎまでまったりして、その後買い物がてらまたしばらく歩く。
こちらは近所のミケ子。駐車場のアスファルトの上でゴロゴロ。
結局、昼過ぎで一万歩強を歩いてしまい、少し昼寝してから仕事などをする。気がつけばもう夕暮れ。
空の少し低いところに宵の明星。これから春にかけて高度を増していくのだろう。
そんな感じの三連休初日の土曜日。まぁ、連休は関係なく、明日、明後日と仕事三昧になりそうだが、まぁ、その分どこかで遊ぶからよしとしよう。そんな感じで、あいかわらずの日常である。