テレビで話題をさらっているこの問題。同じことがこれまで何度も起きながら、有効なてだてが打てないのはどうしてなのか。そこに様々な問題がある。いじめられる側、いじめる側それぞれに心には様々なわだかまりがあるはずだ。それを見守っていく親や教師にも、様々な心の動きがあるにちがいない。問題は、誰もそのことに気がついていないことだ。たとえば、昨日の大津での説明会で、中学の校長は「バッシング」という表現を使って不興を買った。おそらくこれはホンネだろう。事件のどたばたで、それこそ黙祷すら思いつかないような状態になっていたのかもしれない。一歩下がって第三者が見れば明らかに異常なのだが、そこにはある意味で追い詰められた心理が見え隠れする。教師は学校でのいじめ問題への対応のフロントに立っていることは間違いないし、そこから逃げてはいけない。しかし、一方で、家族や友人はどうだろうか。破局を迎える前のサインに気がついていたのだろうか、また、気づていたとして、どのような対応ができたのだろうか。
これはとても根が深い問題だと思う。しかし、根が深く、また個人のプライバシーに踏み込むことになりかねない問題故に、十分に原因究明や対策の検討ができていないようにも思う。この問題を私なりにいくつかの切り口から考えてみたいと思う。念のために書けば、私は教育の専門家でも、心理学の専門家でもない。まして人の親でもない。ただ、小学校から中学校にかけて、かなり陰湿ないじめを受け続けた過去を持っている。親も教師もたよりにならない。そう思いながら9年ほどを過ごしたなかで、自分自身が崩壊しかねない危機感を味わった。これが、私がこの問題にこだわる理由である。
まず、いじめられる側の心からひもとくのがいいだろう。まず、本人にはいじめられる原因がまったくわからないことが多い。つまり、最初から本人にとっていじめは理不尽きわまりないものなのだ。たとえ、それが客観的に見て、本人に原因があったとしても、である。そもそも本人はそこに気がついていない。
もうひとつ言うならば、気がついたとしても、それを変えたくはないという心理が働く場合もある。自分がそれを正しいことだと思い込んでいるような場合である。だが、子供はそれほど強くない。やがて、葛藤を経てそのことが次第に罪悪感に変化し、自分は本当は悪い子だと思い込むようになってしまうかもしれない。しかし、子供はその落とし穴から逃れるすべを知らない。逃げ場がなくなった子供は、助けを求めて様々な行動をとるようになる。ある行動で気づいてもらえないと、次の行動はより注意を引くような奇異なものになっていく。しかし、往々にして、周囲は気づかないばかりか、「おかしな子」というレッテルをその子に貼ってしまう。それが、さらにいじめや疎外を助長する。こうなるとまさに悪循環である。子供の方ももう何が正しいのかわからず、やることなすこと裏目に出る不運を強く嘆くようになる。
小学校高学年あたりの自分は、おそらくそういう状態に陥っていたのだろう。教師も一生懸命なんとかしようと考えていたには違いないのだが、たぶんその方法は少々間違っていたように思う。たとえば、ある日、ホームルームの時間に一人だけ呼び出された。宿直室に連れて行かれると理科教師が待っていて、いくつかの絵を見せられ、その絵を見てどう思うかを問われた。心理テストである。今でも覚えていて、どうしてそんな答えをしたのかわからない絵がある。たぶん、正月元旦、男の子が親に連れられて年始の挨拶に行くところなのだろう。そんな絵を見て、私が答えた中身はこうだ。「この男の子は悪いことをしたので、お母さんと一緒に謝りに行くのだ」と。今から思うと、当時の自分がいかに卑屈に自分を見ていたかがよくわかる。その頃、クラスでは、私のことについて話し合いが行われていたようだが、その中身を知らされることはなかった。
私は、親の仕事の都合で幼稚園時代から小学校1年の一学期まで東京にいた。その頃は仲のいい友達もいて、学校でも普通の子供だったと思う。だが、夏休みに急に郷里に戻ることになり、二学期からは地元の小学校に通い出した。なにもかも違う・・・・そんな印象だったことを今も覚えている。まず、授業開始の挨拶。起立して机の横に立ち、一旦椅子を机の下にしまってから礼をする、そういう作法をならっていた私は、最初からまず浮いてしまった。算数の教材も周囲の子とは違う。最も大きかったのは言葉だろう。東京に出た頃は土地の言葉まるだしで、「いなかっぺ」と呼ばれはしたものの半年ほどで順応し、近所の悪ガキと徒党を組んで走り回っていた。言葉もすっかり東京弁に変わってしまった。しかし、逆はなかなかできなかったのだ。その原因のひとつに、私自身が東京の友達と離れたくなくて、引っ越しに柱にしがみついて抵抗した、ということがあるのだと思う。つまり、東京を忘れたくないが故に、頑固に言葉も変えなかったのである。ここからボタンの掛け違えが始まったのだと思う。あまり思い出したくないことも多いが、そこから先は、最初に書いたとおりの流れである。
中学に入ると、さらにいじめは暴力的になる。トイレに連れて行かれて殴られたことも何度かあった。そんな状況を少し抜け出せたのは、高校進学したあとだ。無理を承知で受験した進学校にかろうじて合格し、周囲の顔ぶれがかなり変わったことが幸いした。だが、この呪縛を完全に脱するのは、大学進学で郷里を離れてからになる。ようやく過去の自分を客観的に見られるようになったのは、社会人になってからである。
こうした自分の経緯を考えると、いじめ自殺という問題は、人ごととは思えないのだ。だから、少し、ひもといてみようと思った次第である。引き続き、周囲は本人から見てどうだったか、本人はどうしてほしかったのか、そしてそのためにどうすべきだったのか、何が必要だったのか、といったあたりも考察してみたい。
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