今朝はいい天気。こんな日は積極的に外に出た方が気分的にはよさそうなので、朝飯を食って、洗濯機をまわして周辺をちょっと散歩。とりあえず、いろいろな花でも見ながら歩いてみることにした。
いろいろと頭を整理しなければいけないことも多いのだが、多少重いことを考えるのも、こういう景色の中だったら多少気楽だし。
そういえば、政府が静岡の浜岡原発の停止を「要請」したというニュースがある。中部電力は苦渋の決断を迫られた格好で、昨日も結論は出せなかったようだ。ちょっと浜岡について調べてみたのだが、福島との大きな違いがいくつかある。まず、タービン建屋が海側ではなく山側にあること。原子炉を含む建屋の海抜が高いこと。海側に10mほどの高さの砂丘が作られていることなどが主なものだ。福島の場合、タービン建屋がもろに海沿いにあっただけでなく、岩盤との関係から、高台を削り取って建設されたため、相対的に建物の海抜が低くなっているとのこと。もちろん、それでも想定外の事態はありうるのだが、なぜ今、停止要請なのだろうか。
その理由は、「安全のため」としか説明されていない。それゆえ、様々な憶測も呼ぶ。根も葉もないという前提で書くが、たとえば「東海地震の前兆現象が観測されたのではないか」というもの、「公にされていない欠陥が実はあったのではないか」というもの、「単に政治的なパフォーマンスだろう」というもの、「いや、もっと中部電力がらみで政治的な思惑があるのでは・・・」といったもの。これらは枚挙にいとまがない。こうした憶測がなんとなく真実みを持って感じられてしまうのは、今回の福島の事故で情報の公開がすべて後手にまわったり、小出しにされてきたからにほかならない。これまでの、原発事故隠蔽の事実も影響しているだろう。つまり、国民は判断すべき情報が少なすぎると感じているのだ。
もちろん、情報の受け手には様々なレベルがある。不用意に情報を流せばパニックを起こしてしまう可能性もある。だが、日本国民はそれほどバカなのだろうか。パニックが起きるのは、むしろ情報不足のせいだったりしないのか。
逆の言い方をしよう。今すべての情報を握っている人たちは、それほど賢いのか、ということだ。単に、多くの情報を持っているということだけに酔ってしまうような人種だったりしないだろうなと。だとしたら、そうした曲がった優越感こそ糾弾されるべきだ。そうでないことを祈りたいと思う。様々な情報があふれる時代だけに、人々は情報過疎に敏感だ。情報が少ないことに不安を感じがちだ。もちろん伝え方には正確さが必要だし、説明には論理性が必要だ。メディアは国や東電の発表を切り貼りして伝えるのではなく、そのニュースリリースなどのソースをきちんと読者、視聴者に提示すべきだろうと思う。こうしたことを地道にやらないと今の不信感は払拭できないだろうと思う。
昨日からNNNがニュース番組の中で米国の同型原発を取材した様子を流している。洪水、竜巻地帯にある原発の予備電源は浸水や竜巻による破壊を防ぐ構造になっているが、それでも今回の福島の事故で、さらに安全対策を見直す可能性もあるという。周辺の街には万一の事故の際の避難経路を示す標識が、ちょうど日本の災害避難経路標識のように立っている。これらは、「事故がおきる可能性はゼロではない」というリスク管理の基本原則に従って考えられている。しかし、日本ではなぜか、「原発事故」の可能性を公に議論することがタブー視されてきた。これもおかしな話だ。「原発は安全」ということだけが声高に叫ばれ、「重大事故の可能性」はまずないと強調され続けてきた。これが日本固有の歴史的な理由からだという人たちもいるが、はたしてそうだろうか。
核アレルギーという言葉は言い得て妙である。アレルギーはその原因物質を大量に摂取したり長期間触れたりして発生することも多い。花粉症などがその典型だ。だとしたら、日本国民が核アレルギーになっているというのは、歴史的にみて道理が通る。トラウマという言い方をしてもいいだろう。アレルギーもトラウマも、ある意味、自分に害を及ぼすものを遠ざけるための防御反応である。きわめて当然のことだ。
重大さのレベルは大きく異なるが、たとえば花粉症は、もはや国民病だ。だが、だからといって杉や檜を一気にすべて伐採してしまうことはできない。当面はマスクや薬でカバーしつつ、中長期的には、根本的にアレルギーなくす方法、たとえばワクチンや花粉の出ない杉などの開発を進めていくしかない。また、こうした過敏さを引き起こす周辺の化学物質を減らしていくことも必要だ。人々は花粉やそれからの身の守り方についての情報を得て、それぞれに自分に合った対処法を考えている。
アレルギー=病気=悪、ではないことに気をつけたい。これは自己防御のための正常な反応なのである。しかし、アレルゲンを一気になくすのは難しい。だとしたら、それを緩和するための様々な情報が必要だ。本質的には原子力もこれと同じことなのではないだろうか。そもそも、原子力は「クリーン」なエネルギーではない。エネルギーを僅かながら得た結果として大量の危険な燃えかすを出す汚れたエネルギーだ。単にそのゴミを外に出さないように封じ込めているに過ぎない。それが破れると今回のような事態となる。しかし、今、CO2排出削減が地球全体の死活問題となっている中、CO2を出さない代替エネルギーの開発は容易ではない。中長期的に見て原子力の発電コストが本当に安いか、という議論はあるが、今すぐ使える技術ではある。短期にCO2排出を減らすことが必須となれば、化石燃料を使っているものを、原子力発電による電力に置き換えるのが近道だ。つまり、これを「必要悪」として受容するかどうかという問題なのだと思う。この「受容」の判断にはリスクとメリットについての詳細な情報がいる。私は当面、このリスクは受容せざるを得ないだろうと考えるが、今の情報公開のありかたを見ると不安は募る。危険性は危険性として明らかにした上で、それにどのような対策を取ったら受容が可能なのか、またいつまで受容すべきなのかをもっとオープンに議論すべきではないのか。
現代社会のエネルギー消費は膨大だ。省エネを叫ぶだけなら簡単だが、それを実行するのが容易ではないことは、今回の電力不足でも明らかになっている。今の人類は化石エネルギーも含めて発生したエネルギーの大半を廃熱として捨てている。このエネルギー効率を少し上げるだけで、地球のエネルギー事情は一変するかもしれない。中長期的に見れば、再生可能なエネルギーの開発と同時に、こうしたエネルギーの消費効率をあげる技術の開発への投資は不可欠だと思う。
この効率の向上とセットでならば、将来的には原子力にたよらないエネルギー供給も可能になるかもしれない。「節約」とは「我慢」ではなく「効率のよい使い方」をすることである。もちろん、いわば質量のエネルギーへの転換である原子力の将来型もあっていいだろう。核融合もかならずしもクリーンと言えない部分はあるし、技術的にはまだまだ。なにか、危険な副産物を出さない、より効率のいい転換方法が見つかれば、それは人類科学の大きな成果となるだろう。
なにやら論文を書いてしまったが、私自身、なにごとにつけ、情報がないと不安になる性格であるがゆえに、こうしたことは強く感じるのかもしれない。ある意味、情報に対して受け身でいられない、それを受けて何か行動を起こすことで自分の存在感を感じるようなタイプの人間だ。逆の言い方をすれば、情報がなければ、なんとかしてを自分で得ようとするし、それが無理なら少ない情報から推論を試みる。しかし、結果として見当違いをしでかすことも少なくない。自分ではそれでもいいし、情報がないから動かないなんてことは、間違いを犯すリスク以上に自分の存在感を脅かすと思っている。
案外、ネットであれこれ書いている人たちには、私と同じようなタイプの人が多いのかもしれない。そう考えると日本も捨てたもんじゃないなと思う。
さて、あれこれ書いたところで、洗濯が終わったようだ。今日は久々に洗濯物を外に干してみよう。
コメントする