さむっ・・・。
勢いよくベランダの引き戸を開けたら、冷たい風が吹き込んできた。まだ寝ぼけ半分のちょっとした幸せを一気に吹き飛ばされて、ちょっとばかり不機嫌になってしまった俺。
昨日、帰りがけに上司の部長と大口論したあげく、あっさりと言い負けてしまった悔しさがよみがえってきた。真っ青な冬空とは裏腹に、気持ちはどんよりと曇り空、今にも雨が降りそうなお天気。なんとなく会社に行きたくない気分だ。
とはいえ、仕事も溜まってるし、これ以上遅れたら、またあの部長に嫌みの一つも言われるハメになりかねない。しぶしぶ身支度をして家を出た。気分のせいか、余計に寒さがこたえる。マフラーでもしてくればよかったかな。駅に向かう道すがら、マフラーと毛糸の帽子で重武装した小学生とすれ違いながらそう思った俺。しかし、次にすれ違った女子高生は、やはり定番の生足ときた。この落差はなんだ。それにしても俺が一番中途半端な格好じゃないかなどと、ちょっと自嘲気味につぶやいてみる。
俺の名前は林幸彦、幸という字を名前に持つ割には、なんとなく幸薄い人生を送っているように思うのは気のせいだろうか。仕事はしがないプログラマー。聞こえはいいが、コンピュータ様にこき使われる身の上だ。そもそも、こんなはずじゃなかった。子供のころから宇宙にあこがれて、ロケットを作りたいと思い続けてきた。でも、ふとしたきっかけで読んだアインシュタインの伝記で、光の速度が越えられないと知り、大ショックを受ける。ロケットを作ったって、わずか4.3光年先のお隣の星まで行くのに何万年もかかっちゃしかたがない。それでは・・・と、エンジニア志望から物理学者志望に乗り換えたのが小学校6年生のころ。ワープ航法の理論を本当に考えるつもりでいた。子供なりに真剣だった。
その勢いで、そのまま某大学の理学部に進んだものの、なぜか算数が苦手でマクスウエル方程式あたりで挫折気味になり、シュレディンガーの波動方程式あたりで死んだふりをするハメになる。あこがれのアインシュタインも曲がった3次元空間を無理やりイメージしようとしてしまう始末で、このあたりで既に真っ白い灰になってしまった。このあたりから俺の不幸は始まったようだ。卒業研究では実験屋になったものの、中途半端に頭で考えてしまい実験結果の解釈に時間を使いすぎて論文もまともに書けず、おまけに悪友たちとのマージャン、パチンコ三昧がたたって3年間も余計に大学に長居するハメになった。念のために言い添えれば、大学院に入ったというわけではない。
卒業後もしばらくは定職もなく、今で言うフリーターとかみたいなことをして過ごしていたのだが、さすがに将来が不安になって、就職したのが、当時猫の手も借りたいといわれていたソフトウエア会社だ。これがまた不幸のはじまりで、エンジニアという名前の奴隷生活がはじまる。何度かの転職で多少状況は改善したものの、性格的に鉄砲玉な俺は、なにかと会社で波風をたててしまう。昨日もそうだ。とあるシステムの設計方法でユーザとケンカして、帰ってきたら部長に小言を言われて口論になった。まぁ、相手は親会社から出向してきた、痩せても枯れてもT大出の秀才。貧乏私大落第生の俺に勝てる相手じゃないのはわかってはいるのだけど、ついつい喧嘩を売り買いしてしまうこの性格は、やはりサラリーマン向きじゃないんだろう。
で、最近よく考えるわけだ。もし、俺がもう少し算数が得意だったらどうなっただろうか・・とか。プログラマーになったおかげで、昔よりも数段ロジカルに物事を考えられるようになった気がする。もちろんそれがたぶん気がしているだけなんだろうということは、昨日の喧嘩の結果が物語ってはいるのだが。
そういえば、パラレルワールドという考え方がある。昔、アインシュタインの特殊相対性理論を勉強してた時、というと格好がいいけど、さすがにこのあたりまでは算数もたいしたことがないのでついていけたわけだ、あくまで灰と化したのは一般相対論についてなのだが、タイムマシンパラドックスとかいう話を先生がしていたのを思い出した。自分がタイムマシンに乗って過去に戻って、昔の自分や自分の先祖を殺したら、はたして自分の存在はどうなるのか・・・というやつだ。つまり過去を変えた結果、現在もかわり、もしかしたら自分も変わってしまったり存在しなくなってしまうかもしれない。でも、そうなったら過去を変える自分も存在しなくなり未来は元に戻って・・・・という繰り返しループに陥ってしまうわけだ。だから、つまり、因果律が成り立たなくなるが故に時間をさかのぼることは不可能であるという話だったように記憶している。しかし、パラレルワールド、つまり、微妙に異なる世界、過去から現在のすべての時点で可能なあらゆる選択肢を取った結果としての無数の「現在」が存在する、という前提と、時間の流れが、アインシュタインのいうように特定の座標系(この場合、自分を基準にした座標系)に固有の流れを持つのであれば、矛盾なく過去に戻ることができる。過去に戻った自分は、今の自分の時間軸で見れば未来にいるから時間の流れに逆らうことはない。しかも、過去に自分が戻った瞬間に過去はそこで枝分かれし、新しい歴史がはじまる。自分を中心にして考えた時間は常に一定に流れていて、それが周囲の時間と違う流れだということだけだし、自分が存在した時間の流れは依然として存在し続けるというわけだ。だとすれば、この世界と並行したどこかで、物理学者になった自分や、ワープ航法を発見してノーベル賞をもらう自分がいる可能性だってある。すべては、過去の偶然の連鎖の結果として。
そういえば、挫折してしまった量子力学の根幹となる考え方に、存在の不確かさの概念、不確定性原理というものがある。たとえば、運動する粒子の位置と運動量を同時に正確に測ることはできない。位置を特定しようとする行為が運動量に影響したり、運動量を測定しようとする行為が位置に影響をあたえたりするから、というのが直観的な説明だが、実際のところは確率論だ。たとえば、昔習った理科では、電子は原子核のまわりをちょうど地球をまわる月のようにまわっていると教えられた。でも、実際は、その電子が原子核に対してどの位置に今いるのかを正確に測ることはできない。その位置にいるであろう確率の分布としてあらわされるのが、量子力学における電子の形だ。だから、電子は原子核のまわりに雲のように分布することになる。エネルギー準位によって分布の形は変化する。電子の軌道はこの分布の雲によってあらわされるというわけだ。
もちろんこれは電子だけの話ではない。質量が軽い電子は、より確率的に振る舞うように見えるだけで、すべての素粒子はその近傍においては確率的に振る舞う。
シュレディンガーの猫という有名な話がある。ちょっとたとえが残酷なので、たとえば、箱の中のコインにたとえてみる。箱のふたをあけたときに、コインが表を向いているか裏を向いているかは、開けてみるまでわからない。そこには裏表それぞれ50%という確率が存在していて、結果はどちらでもいいということしかいえない。しかし、ふたを開けた瞬間に、裏か表かどちらか一方に定まってしまう。ちょうど粒子の存在はこれと同じで、位置を測定した瞬間にその位置に粒子があり、その他の可能性は消えてしまうのだ。もちろん測定する前は確率が支配する世界だ。
そう考えるとパラレルワールドは時間の流れの確率分布と考えることができそうだ。今の自分を導いた偶然の連鎖がどこかで枝分かれしてできた世界が存在する確率はゼロではない。それを計算することは世界中のコンピュータを総動員してもできないかもしれないが、少なくともゼロではない確率で、違う自分がどこかに存在することになる。これは興味深いことだ。
時間が相対的なもので、座標系、つまりこの場合俺自身に固有のものだとすれば、もしかしたら、これは時間そのものが枝分かれしていることになるのかもしれない。俺という存在を基準にすることは、地球を論じるために銀河系全体を基準にするようなもので、不正確きわまりない話なのだが、わかりやすい。実際は自分の体のあちこちでまた時間が枝分かれしているのだが、そんなものをそもそもイメージしようとすること自体、俺が理論家になれなかった理由だろう。いずれにせよ、今の自分のまわりには、雲のように少しずつ違う自分が分布しているわけだ。自分から見た存在確率は、自分に近い自分ほど高くなるはず。でも、これも相対的で、もし違う自分から見た確率を考えればそれは、違うものになるはずだ。こうした結果を招くならば、結論は、すべての確率は均等で、今の自分はまったくの偶然の産物であるということになってしまうような気もする。
でも、それじゃ、人間努力する価値がないじゃないか、俺はそう考えてみる。人間の意思が時間の枝分かれに影響を与えることがあったりしないのだろうか。これは、またミクロとマクロを混同してしまった結果、考えてしまうことなのだが、実際、時間の流れは、その枝分かれの現場を見ることはできないのだろうか。
時間の流れは、少なくとも五感が感じる3次元世界の向きには流れていない。であれば、五感で感じることはできない。人間にとっての時間はそれ自体が不確かで不明確な知覚でしかない。しかし、だから時間は目に見ることができない、と考えるのは早計ではないだろうか。たとえば、物質、素粒子は点でも、連続な存在でもない。ある程度の広がりを持った分布の集まりだとされている。たとえば、これを次元の厚みという観点でとらえるならば、たとえば、第4の次元は我々の3次元と点で交差するのではなく、ある程度の体積を持った空間で交差するとも考えられる。これも確率分布の雲だ。もし、ある瞬間瞬間で、時間と3次元の物質との相互作用で時間の位置が定まり、結果としてそこで時間が枝分かれすると考えるならば、3次元の作用である人間の意志つまり、脳の神経活動という電磁相互作用がそれに影響して、自分の未来を変化させることだってあるかもしれない。いきなり、超能力が使えるようになったり、天才になったりはできないだろうけど、少しずつ未来をかえていくことはできるのではないだろうか。俺がそう考えた瞬間、目の前が明るくなった気がした。
ガツン!、いてぇ~、なんだ・・。我に帰った俺の前にあったのは電柱だった。はぁ・・・どこまで俺って不幸なんだろう。しかし、この妄想癖だけはなんとかしないとな。そのうち車にひかれて・・・・、いやいや、物事はポジティブに考えるべきだ。そうしていれば、時間の枝分かれはいい方向に向いていくはずだ。いやそうに違いない。電柱でまだよかったのだ。これはラッキーだと思うべきなのだ。
なんだか、目の前の雲が晴れた気がした。
--
この物語はフィクションであり、実在の人物、団体に関係があるかどうかは確率的です。また、内容には科学的事実と著者の妄想が混在していますのでご注意ください。(笑)