このところ、膝の具合が悪くて長時間歩くことをちょっと控えていたのだけれど、いい天気で、それほど寒くもなかった今日は、久しぶりにお昼の散歩に出かけてみた。
気持ちのいい青空、ひんやりとして気持ちのいい空気、日差しはまだ少しまぶしいけれど、暖かい。春先に、満開になる桜並木は、すっかり葉も色づいて散り始めている。
また、春が来たら桜のアーチになるのだけど、しばらくはお預けだ。とりあえず、ぶらぶらと橋を渡って豊洲あたりまで行ってみた。運河沿いも気持ちがいい。水面にうつる日差しもずいぶんと柔らかくなった。青空をうつした水面も気持ちがいい。そういえば、このあたりの川岸を見ると、ずいぶん水が綺麗になったなと思う。川岸の浅瀬は綺麗に底が見えるから。
なんとなく時間の流れがゆっくりになった気がする。ちょっとこのところ、仕事がペースアップしてきたので、こういう時間も大切にしたいものだと。
時間といえば、ふと今日も、こんなことを考えながら歩いていた。時間ってなんだろう。昔から時間の流れの存在は、暗黙に認められていて、誰もそれに疑問を抱かない。しかし、考えてみれば、これほど感覚的なものもない。実際、時計は一定かつ共通の時間の尺度に見えるが、厳密にいえば、たとえ原子時計であろうとも、すべての時計は異なる時を刻む。単に人の感覚では違いが感じ取れないだけだ。もしかしたら、時間などという独立した軸は存在しないのかもしれない。時間は位置や運動と渾然一体として、相対的なものだ。物が動くから時間が存在する。動き方によって時間もかわる。アインシュタインの考え方だが、もう一歩進めて時間(ここでは固有時間のことだが)を独立した軸としてではなく、他の軸(次元)と同等なもう一つの自由度であると考えたらどうなるだろうか。なんとなく、タイムマシンパラドックスにひっかかりそうだが、時間はそれぞれ自由にとった4次元空間の中の3次元座標系に固有の流れを持つのだから、高い次元で見れば、運動の一つにすぎないのかもしれない。でも、時間がなければ運動をどうやって表現できるのか・・・。こんなことを考えていると、なんとなく頭がこんがらかってくる。そもそも、絵に描くこともできない、数式でしか表わせない高次元の世界を頭の中で考えることは、アインシュタインやホーキングのような超天才にしか許されないことなのだろう。でも、こういう空想は楽しい。
そもそも、人間は生まれた時から目に見えるもの、五感で感じられるものを信じてきた。まぁ、時々、+α の次元を見通して、普通は見えない存在を見ちゃう人もいるみたいだけど。光、つまり視覚は最も信ずべき感覚だと思われている。しかし、これほどまだ実態がわかっていない代物もない。電磁波?、光量子、質量もないのに運動量は持ってる?、速度は一定で、エネルギーは波長が短いほど高い?。数式上では解けても、誰もその本質はわからない。人間の五感はそれぞれ補完し合っているのだが、よく考えてみれば、五感をつかさどっている感覚器官はすべからく広い意味では電磁作用を使って、情報を収集、伝達している。そういう意味では、電磁場に縛られているわけだから、直接、間接的に電磁場に対して影響を与えるものでなければ感知できないとも言える。重力だって、電荷を持った粒子(質量)と相互作用するから感じられるわけだ。もしかしたら、我々は偽りの世界に住んでいるのかもしれないな、とちょっと疑心暗鬼な感じだ。
ビッグバン以来、宇宙は加速膨張しているというけど、それは本当なんだろうか。結局、理論家はダークエネルギーなる不可思議な概念を加えて、また数式を複雑化してしまう。なんとなく、このままでは最も美しいはずの大統一理論も、不可解きわまりない数式の山になりそうだ。敢えて、過去にやった勉強を捨てて、こういうことを言うのだけど、自然はもっとシンプルなものなのかもしれない。時間、というものが今考えられている以上に不確かなものだったとしたら、すべての計測は無意味になるかもしれないし、ある意味、これまでの考え方を一回捨てて、一から考え直してしまうような大天才が出てこないものだろうか。たとえば、光の速度が一定で越えられない・・・ということだって、時間が自在に変化する世界では、違う見え方をするかもしれない。・・・・妄想だが、これもまた楽しい。たとえば、今我々が見ている光が、実はもっと高次の何かの影だったり副作用だったりしたら・・・。こんな妄想をしだすときりがないのだけどね。
秋空の下の散歩、そして秋の夜長は、こんなことも考えさせるのかな。
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