どこかの国有鉄道くずれの会社がやってるキャンペーンではないのだけれど、なんとなくそんな気分になった。
今週も、いろいろあって疲れもたまった昨夜の帰り道、ふとそんな考えが頭をよぎった。一夜明けて今朝になっても、その気分はかわらず、カメラ一丁もって新幹線に飛び乗った。
京都タワーのこの雰囲気は35年前とかわっていない。しかし、京都駅は、当時の面影のかけらもなく、現代的なビルに生まれ変わっている。秋の横にある郵便局のビルは、さほどかわった様子もないのだが、駅前がこれだけ大きく変わると、なんとなく違和感も大きい。
そう、35年くらい前、私は京都に住みついた。大学に入って郷里を離れ、そのまま約10年ほど、京都に住んでいたのだ。つまり、「京都へ行こう」と思ったのは、「世界の観光地」京都に行きたかったからではない。かつて自分が住んでいた街を、ふと訪ねたくなったからだ。
>京都駅前のバスターミナルに並んだ行き先案内は、どれも懐かしい地名ばかりだ。京都に住んだことのない人にとっては、いずれもガイドブックにある観光スポットなのだが、私には、それぞれに、日常につながる想い出がある。
バスに乗るのはなんとなくもったいない気がして、とりあえず北へ歩きはじめた。七条烏丸から七条通を河原町方面に歩く。
ふと前を見ると、着物姿の女性。ああ、なんとなく京都・・・・いや、これはステレオタイプなイメージなのだが・・・。でも、こうして歩いてみると、女子高生くらいから妙齢の女性にいたるまで、やはり美人が多いなぁ、と思う。おじさんとしては、なんとなく嬉しい。
河原町通りを七条から五条、そして四条河原町まで歩く。さわやかな天気で、日陰を歩くと気持ちがいい。京都としては、春先とこの季節が最もいい季節にちがいない。連休の狭間で、観光客も比較的少なく、夏のうだる暑さや冬場の底冷えもなく、散策するには絶好のタイミングだったかなと思う。
四条大橋のたもとから鴨川べりに下り、川沿いを三条まで歩く。川沿いの「床」はまだ営業中。今日は最高の床日よりにちがいない。三条大橋手前で川沿いを離れ、河原町通りに戻る。木屋町と高瀬川の雰囲気はこれも京都。
御池の京都市役所を横目に丸太町通りまできて、ここからちょっと寄り道。鴨川をわたる。
仰げば比叡、千古のみどり、伏す目に清しや、鴨の流れの・・・・
我が母校の校歌の一節である。 こんな景色を見ると、ふと口ずさみたくなる。そこからそれほど遠くないところに、ぷーたろ時代のバイト先がある。
バイト先は、小さなステージスタッフ会社。オーディオ好きが高じてPAエンジニアの手伝いのバイトをやっていた。聞こえはいいが、仕事の多くは荷物運び、設営、撤収作業だから、かなり体力勝負の仕事だ。そんな仕事の中で唯一暇なのが、「小屋番」つまり、契約しているホールの音響スタッフ番の時だ。上の写真は事務所の下の喫茶店。よくたむろしていた店がまだ残っていたのは嬉しかった。今だから言うが、実はこの店のおねーさんにちょっと恋心を抱いていたのだが・・・、今はどうしているのだろうか。その下の写真は、小屋番をしていた小さなホール。これも昔の雰囲気そのままだった。
さて、鴨川沿いに戻って川端通りを北上。荒神橋を渡って、また河原町通りへ。府立病院前。そして、今は府立医大になってしまっているが、その昔、うちの大学の文系学部の小さなキャンパスがあった場所。母校の立命館が衣笠に引っ越して、しばらくは大手予備校の校舎になっていたのだが、今は当時の建物はもうひとつも残っていない。
そして、河原町今出川から、また鴨川方面へ。このあたりは、サークルの活動などで、よくきていた場所。この橋のちょっと上流で、加茂川と高野川が合流し鴨川になる場所。「三角州」と呼ばれていた。橋の上からは大文字山や、「法」の字も見える。大文字焼きの日は、ここは人の海と化す場所だ。
さて、河原町今出川付近に戻って、いいかげん歩き疲れたので、バスに乗った。このバス停のあたりに、30年前は「じゃるだん」という喫茶店があって、悪友たちと夜更けまで何時間も入り浸ったものだ。今はもうすっかり雰囲気が変わってしまっている。59番のバスは三条京阪から山越行き。衣笠と先ほどの広小路を行き来した当時の立命館大生御用達のバスだったのだが・・・。なつかしいので、ついでにこのバスで衣笠まで行ってみることにした。
バスは今出川通りを西に向かい、千本通りから北大路、そして金閣寺を経由して衣笠へ行く。金閣寺のあたりからは左大文字が見える。
衣笠(今は、立命館大学前と名前が変わっていた)バス停前の堂本美術館は昔のとおり。当時、こちら側から大学の入口には何もなかったのだが、今は門と受付ができ、駐車場もある。
もう一つの入口、「以学館」側の入口はなんとなく当時の雰囲気があるが、こちらもきちんとした門ができて守衛所がある。これもご時世だろうか。昔はのどかだったなぁ、と。建物は綺麗に塗り替えられ、当時のコンクリートむき出しの雰囲気とはだいぶかわっている。ごてごてした立て看も見あたらない。時代は変わった。校門前の路地には、いくつか食堂があったのだが、それもなくなっている。学生の数が減ったからか、それとも嗜好がかわってしまったのか・・・・などと想像してみた。ちなみに、もう理系学部はこのキャンパスではなく、滋賀県の草津に立派なキャンパスがあって、そちらに移転済みだ。
それから、今度は北野白梅町方面へ歩いた。京福電鉄(通称、嵐電)の線路沿いに出て、そこから白梅町(つまり、西大路と今出川通りの交差点)へ向かう。嵐電の駅は昔のとおり。授業をサボって入り浸った「衣笠会館」「ニューパラダイス」の2つのパチンコ屋はいまだ健在。博打業界だけは不景気もあまり関係ないらしい。昔、吉牛があった場所はスーパーになっている。そこから少し下がって「大将軍」の交差点。このあたりにも、よなよな入り浸った喫茶店があったのだけど、コンビニになってしまっていた。
そこからしばらく歩いて、下の写真の小さな寺・・・。ここは、当時の悪友が下宿していた寺。よく泊まりに来て、夜通し話し込んだものだ。そして、そこからもう少し歩いたあたりに、京都時代の最後の数年を過ごしたボロアパートが・・・・・、と行ってみたら下のとおり・・・。
でも名前を見たら、「メゾン EIWA」だって・・・。当時住んでいたボロアパートの名前が「栄和荘」だったから、こりゃ、建て替えたな・・・と。まぁ、なつかしい名前の一部だけでも残っていたのは嬉しい。
さて、いったい京都に何をしにきたのだろう。たしかに、懐かしい場所をまわるのは楽しいが、もしかしたら無意識に、この街に忘れてきた何かを探しに来たのかもしれないなと思った。何を・・・というのはわからない。でも、こうしてかつての想い出深い場所を巡っていると、何か忘れていたものを思い出したような気もする。すっかり「大人の日常」に埋没しているなかで、燃え残った何かをまた燃やすために探している・・・そんな気がした。
さて、そこから少し下って歩いているうちに、そろそろ足の限界に近づいてきた。なんだかんだで10Kmくらいは歩いたかもしれない。若い頃ならいざしらず、この体重オーバーの身では膝を痛めてしまいかねないので、二条駅から電車に乗って京都駅に戻った。二条駅それから山陰線(とは言わないのか・・もう)はすっかり綺麗に整備されていた。
そんなこんなで、「思いつきの京都旅行」は終わった。なんとなく少し元気が出たような気もする。また、何かの折りには今回行けなかったたりにも言ってみたいなと思う。
しかし、さすがに疲れた・・・。風呂に浸かって寝るとしよう。