今だから言えるが、小学校から中学校にかけて、さんざ、いじめられた記憶がある。特に中学進学の時は恐怖で一杯だった。案の定、入学式当日に3年生に廊下の隅で蹴りを入れられた。この9年間に及ぶいじめの連鎖のきっかけは、いまから思えば単純だ。他人と違ったことをする・・・・、それだけである。物心ついた直後に、実家のある石川県から親の仕事の都合で東京に引っ越した。ある意味当然だが、最初はここでもいじめに遭った。言葉が違うのが原因。しばらくの間、「いなかっぺ~」コールを食らって悲しい思いをしたが、この時は、まだ順応力があったのか、言葉もすぐに変わって、いつのまにか近所の悪童連と一緒に、徒党を組んで悪さをするようになっていた。東京でも一度引っ越したが、その時は特になんということもなく、引っ越しで幼稚園を中退したまま、小学校入学までそのままだったにもかかわらず、友達には不自由しなかった。そのまま順調に小学校に入学し、友達も一気に増えた矢先、夏休みに親の都合で実家に戻ることになる。これが悪夢の始まりだった。思えば、東京を離れる際に、柱にしがみついて、行かないと泣いた記憶がのこっている。実家に戻ってからも、東京の友達が忘れられず、その気持ちが災いしたのだろうか、言葉をかえることも、学校での作法を変えることも頑強に拒んでいた。当然それが災いする。今度のいじめは、いつまでも終わらなかった。いじめにあい続ければ気持ちもゆがむ。今から思えば、SOSのつもりで、教師や親に対して奇異な行動をとったが、それがまた、いじめを呼んだし、教師や親の態度もだんだん変わっていった。とりあってくれなくなってしまったのだ。悪循環だ。結局、この連鎖をある程度断ち切れたのは、高校進学時だ。それまでいじめの中心だった「悪い奴ら」と同じ高校には絶対に行きたくなかったから、必死で勉強した。ただ、9年間の悪夢でゆがんでしまった性格なんか、簡単にはなおらない。高校でも、やはりちょっと変な奴・・・だったに違いない。ただ、幸いにも、高校では激しいいじめには遭わなかった。完全にそれを断ち切れたのは大学に入った時だ。郷里を離れ周囲に過去の自分を知るものが、一人もいなくなった時に、本気で自分を変えようとした。それがうまくいったのだ。
考えてみれば、私は極めて幸運だったのかもしれない。もちろん「地獄」から逃れるために努力はしたが、それが実る環境が幸運にも与えられたのだから。私自身は自殺は考えたことがない。でも、あれがもう何年か続いていたらどうなったかわからない。すでに、どんなSOSも誰にもわかってもらえなくなっていた。ある意味、小学校では学校の問題児になりはてていたし、親もそれに疲れ果てていたのだろう、「おまえが悪い」としか言わなくなっていたから。身に覚えのない悪事の濡れ衣を着せられたこともあった。教師から差別的な言葉を投げられたこともあった。(ただ、これは今から思うと、当時はかなり一般的に行われていたことだ。たとえば、言うことを聞かないと知的障害者の養護施設に入れるぞ・・・といったたぐいの発言は日常的だったから)たしかに、教師の一言は、同級生の数十倍の重みがある。クラス全員がそれをマネするからだ。
こんな私の経験から言えば、いじめが日常化してしまうと、当人は自分ではどうしようもなくなってしまう。何かしようとすれば、それがことごとく裏目に出て、いじめを助長してしまうからだ。こうなると、教師か、最後には親に頼るしかない。ただ、大人なら素直に悩みを相談できるかもしれないが、子供の場合は、ともすれば、まず気をひこうと奇異な行動に走ってしまうことも多いだろう。このサインを見落としてしまうと、もう子供を救う手だてはなくなってしまう。
子供にとって、最後の砦は家族だ。誰がどうあろうと、自分の家族は自分を守ってくれるという安心感は、追いつめられていく子供の気持ちに、安らぎをあたえ、自分を冷静に見つめる余裕を与えるに違いないと思う。どうしたらいじめを克服できるか、正直なところ、引っ越して転校する以外にいい方法を私は思いつかない。でも、子供がそれをきっかけに自分を変えようという気持ちにならなければ、また同じことになるだけだ。それには大人の援助がいる。あーしろこうしろ、という援助ではなく、信じられている、見守られている、という安心感を与えてあげることだと思う。一番苦しいのは子供自身なのだから。
誰かが最後の砦になってあげてほしい。それは多くの場合、親の仕事だ。
私自身は継続的ないじめにあったことはないですが、ずっと人と違うという違和感を抱いてきました。ずれてる、というか。
なので10代には女友達がほとんどいませんでした。自分が悪いのかと思い、人、特に同年代のいわゆる女の子たちにあわせていこうと努力をしたのですが、それがつまらなくちーとも楽しくなかったので...はやばやと挫折。
自分は自分でいいんだ、と思ったときに方から力が抜け、楽になりました。ようするに、自分と違った自分を無意識のうちに演じていたから違和感があったんだなあと。それは25も過ぎてから。
いまも相当変わっていると思いますが、アメリカでいる日本人なんてどこかしか変わっているので、目立ちません(笑)。もちろん、ものすごく変わっている人もいますが、それは「個性」のひとつとして受け止められているところがいいとおもいます。
いじめの問題は、人間が人間でいる限り、永遠になくなることないと思いますが、安易に死を選ばないような強い子どもに育つような環境をつくるのも、おとなの仕事じゃないかと思います。それにはまず、大人が、強いところをみせなければ。。。(最近は集団自殺とかあふれてますからねえ。。。)
そう。変わってるところといえば、私だってまだまだ残ってると思う。変わってることが、いじめのきっかけになることは多いけど、それが本質じゃないと思うよ。私の場合は、ある種、どうでもいい「違い」にこだわりすぎたのかもしれない。逆に、本当は全然違わない部分まで違って見せようとしてたように思う。そういう意味では、私の場合は、「違わない」という理解が力が抜けるきっかけだったかもしれないね。