1964年の東京オリンピックは、子供心に胸躍る体験だった。始まって間もないカラーTV放送、時速200kmの新幹線は子供達の夢の象徴だった。東洋の魔女は、その後の「スポ根」ブームの火付け役だったかもしれない。高度成長のまっただ中にあった日本の首都、東京は、この一大イベントの前後で急成長した。東京の、というよりは国民的大イベントだったことは間違いない。
それから52年後、東京はまたオリンピックを迎えるのだろうか。それは、1964年のオリンピックのような国民的イベントになりうるのだろうか。なぜ東京でなくてはならないのか、という説明は、そのすべてが現在の東京の経済的、政治的、地理的な地位を前提にしたものだ。この40年あまりの間、人、モノ、カネの集中が止まらなかった東京、その必然的結果が今回の候補地決定の理由だとしたら、そこには「首都東京大統領石原氏」の論理しか存在しない。遷都論にも反対し続けた彼の、自らが頂点に立つ「東京国」の利益しか考えない論理のように思う。
福岡でなぜいけないのか。経済的な地盤が弱い。施設の整備に不安がある・・・。ならば、国家的なバックアップでもり立てればいい。かつて、東京が享受した経済的恩恵を地方にも与えればいいのではないか。さもなくば、金食い虫のオリンピックを誘致することそのものを再考すべきだろう。東京の財政的基盤は当然ながら都民の血税の上に成り立っている。本当に、東京にオリンピックが必要なのか、都民の、いや国民的な議論が必要だろう。