セキュリティに性悪説は必要か

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いきなり・・・だが、最近とみに思うことだ。

情報漏洩事故、しかも内部のルール違反や犯罪によるものが増えている(というよりも、頻繁に「報道」されるようになっているだけのようにも思える)昨今、記者会見で「性善説でやっていたが、甘かった。これからは性悪説で・・・」といった釈明をする会社経営陣が見られるようになってきた。それにあわせて、企業でも「性悪説」にのっとったセキュリティ対策を叫ぶ声が増えつつあるように思う。しかし、これは本当に正しいことなのだろうか。

「性悪説」の意味は、「(生まれついての)善人なんていない」ということだ。しかし、多くの人は逆説的に「根本的にはみんな悪人なのだ」というようにとらえてしまうだろう。少なくともこの社会に暮らす多くの人たちは「善良」な人たちだ(と信じたい)。一握りの悪者と善人の区別が難しくなってきているのは確かだが、それでも大多数は善良な人たちだ。会社もそう。そうでなければ、今の会社のシステムなんて成り立たない。経済だって、自由競争なんて決して成り立たないだろう。問題は、大多数の善人から悪人をどうふるい分けるかということのはずだ。この社会に唯一、このような(俗な解釈で言うところの)性悪説に立っていいものがあるとすれば、それは「刑務所」だろう。会社で「性悪説」を叫ぶこと、つまりは会社も「刑務所」と同じ考え方でやる、いうことになりはしないだろうか。

これは、考え方の問題だと思う。「性善説」だからといって、放任や盲信が許されるものではない。むしろ、少数の悪人から善良な人たちを守るためにしなければいけないことは多いはずだ。そういう意味で、先の「性善説だったから・・・」発言は、単なる責任放棄の言い逃れに過ぎない。たとえば、そのためには様々なルールやそれに基づいた規制が必要になるだろうし、「監視」することも必要になるだろう。しかし、それらは「性悪説」に立たなければできないことではない。むしろ、「性善説」であるからこそ「しなければいけない」ことだと思うのだ。

私が最も恐れるのは、この「性悪説」という言葉の一人歩きだ。「性悪」と言われた瞬間、善良な社員たちは会社と敵対してしまうことになる。「会社は自分を疑っている」という意識は悪人にとっては牽制になるが、善人にとっては心の痛手である。ひと握りの悪人を牽制するために、多くの善良な人の心を傷つける愚を犯してはならないと思う。

これは、ある意味で「言い方」の問題であるかもしれない。セキュリティ対策はどちらの立場でも、多少の違いはあれ、あまり変わらない。それは現実にある「リスク」に基づいたものであるはずだからだ。しかし、実はそれらの対策の中には善良な人たちの協力なくしては成り立たないものも多い。だとしたら、こうした善良な人を敵にまわすような言い方は、対策そのものを危うくしてしまいはしないだろうか、というのが私の問題提起だ。

会社は皆さんが善良であることを信じます。しかし、一方で悪人を決して許さない。そのために必要な措置はとります。・・・・ということなのではないだろうかと思う。

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このページは、風見鶏が2006年7月 2日 09:46に書いた記事です。

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