眠い目をこすりながら、玄関のドアを開けた。今日もいい天気だ。 11月ともなれば、朝方は少しばかり冷える。そのぶん、起き抜けの体にエンジンがかかるのに、 ちょっと時間がかかるから、バス通りに出た頃、やっと周囲の状況を認識できるだけの意識が戻ってくる。
少し早起きして、まだ7時すぎだというのに、通りはそろそろ渋滞が始まっている。 まだ駅まで歩いて10分はかかろうかという所にあるバス停に泊まったバスが、黒い固まりを大量に吐き出していた。 ここから駅までは歩いたほうが早いのだ。いつのまにか、周囲には人があふれ、狭い歩道に、 押し合いへしあいして歩いている。のんびり歩けば、踵を蹴られるし、急ごうとしても、前をふさがれて身動きがとれない。 だから、私はバスが来ると、反射的に小走りになり、バスより先にバス停を通り過ぎようとする。 しかし、幸運にバスに先んじても、うっかり足を緩めると後ろから足音が迫ってきて、あっと言う間に人混みにまかれてしまうのだ。
誰も彼もが、驚くほど早足だ。こうやって落ちついて書き物をしている時は、「なにも、朝っぱらから、そこまでせかなくても」 と思うのだが、いざ、その場にいると、やはり自分自身も、何者かにせき立てられるように、早足になってしまうのである。 そればかりではなく、誰かが自分を抜いていこうとすると、無意識にそれを阻むべくスピードを上げている自分に気がつくことがある。 皆がそうだから、相互作用で、歩く速さがどんどん早くなっていくようにも思える。 後ろから、早足で横をすり抜けたかと思うと、目の前でいきなりペースダウンして、私を押さえ込むかのように、 目の前に割り込む奴もいる。これが車ならば、クラクションものだ。 最も困るのは、私の前で、おもむろに懐からタバコを出して火をつける奴。 なにも、この爽やかな朝に、しかもこの人混みでタバコを吸わなくてもいいものを。 後で、うまくもない煙を吸わされる者の身にもなってほしいものだ。 こんな奴に限って、それを嫌って前にでると、そいつも早足で抜き返してくる。 まったく、朝っぱらから気分の悪い話である。
駅に続く道のほとんどが、こんな感じだから、駅の状態は簡単に想像がつくだろう。 沿線の中でも、特に混雑の激しい駅だという話だが、最も混雑の激しい時間帯では、ホームの上も電車の中もかわらない状態である。 2、3分間隔で滑り込んでくる電車は、すでに満員。どうやったら、これだけの人が乗り込めるのかと思うが、 ほとんど、積み残しは出ないから不思議な話だ。
もちろん、その分、電車の中は想像を絶した状態になる。乗り込んだ直後は、まず修羅場である。 とにかく、詰め込めるだけ詰め込んだ上に、まだ、何人もが必死の形相で乗り込んでこようとするのだから、 もう、自分の足場すら確保できず、なすがままの状態になる。しかし、これが不思議と、電車が動き出してしばらくすると、 次第に安定して、一種の平衡状態となる。窮屈なのは同じなのだが、必要以上に押されるでもなく、押すでもなく、 安定した平和な状態が訪れるのだ。これで、窓の外の景色を眺める余裕も生まれる。 このような満員電車を毎日体験していて、それに慣れてしまっていたのだが、ある朝、ふと考えた。 いったい自分の周囲にいる、これらの物は何だろうか・・・と。
たしか、人だよ。人のはずだ。自分の体を支えてくれる緩衝材ではないはずだ。でも、こいつらは、言葉をしゃべるでもなく、 ただ単に、私の周囲に立って、私を押さえつけているだけではないか。やはり、自分にとっては単なる緩衝材だ。 でも、ときどき、緩衝材の分を心得ない奴がいるぞ。なんだか、ぎゅうぎゅうと押してくる。押し返すと生意気に咳払いなんかして。 私の足を踏みつけて知らん顔の奴もいれば、不快な匂いをまき散らす奴もいる。うっかり緩衝材扱いすると、 振り向いて睨みつける奴だっているぞ。押されるからしょうがないじゃないか。そんなに睨むなよ。 人だと思って見ると、確かに色々な奴がいる。迷惑面した親父どもに押しつぶされている、ランドセルの小学生。 ヘッドホンで外界と隔絶されて何を思うのか、高校生風。会社じゃちゃんと仕事してんのか?、とぼけた新入社員風。 部長だって社長だって、満員電車じゃタダのオヤジさ。お気に入りの服もメークも、満員電車じゃ無力だよね、OL風。 人だと思って見てしまうと、急に気が小さくなって、周囲に遠慮がちになる。 そう、人間、この気持ちが大切なんだ。譲り合い、人を大切にする気持ちがなくなっちゃ、世の中真っ暗だからね。 ここまで行くと、周囲から押されても、受けとめて腹も立たなくなる。出来た人格ってのはこういうのを言うのだろうね。
やがて、電車が終点に着くころには、私も立派な緩衝材になっているのである。
こうして会社にたどり着いた頃には、一日のエネルギーの半分くらいを消費した気分になってしまうのだ。 しかし、全エネルギーの半分を朝の1時間で使ってしまうなんて、東京という街は、ずいぶんと損をしていると思う。 とはいえ、この状況は簡単に変わりそうにない。おそらくは、東京で働く限りは、越えていくべきハードルなのだろう。
これをして東京のバイタリティーだという人もいるかもしれないが、少なくとも弱者にとっては過酷な街に違いない。 一度ならずも、趣味のスキーで足を痛め、歩くのが辛かった時期があった。その時の朝の乗換駅の階段の恐怖は筆舌につくしがたい。 私の事情など、だれも知らないのは無理もないとしても、何度か、押されて危うく転げ落ちるところだった。 道楽での怪我なら自業自得であろうが、世の中には望まずして苦難を背負う人たちも多い。 このような人たちが安心して暮らしたり、仕事ができて、はじめて「世界の東京」といえるのかもしれない。 自分のことで精一杯ではなく、一人一人が他人を思いやる余裕を持てるようになり、他人のために自分のエネルギーを 使えることが真のバイタリティーなのではないだろうか。いつしか、東京がそのような街になることを期待したい。
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