「現代人は心を病んでいる。」
ノイローゼ、自殺、そのような事件の解説の枕詞の常套句であるこの言葉ほど、 いいかげんで曖昧なものはないと思う。 それは、凄惨な事件の本質を覆い隠してしまうのに、まことに好都合な言葉だ。
昔から、「自分が気違いだと思ってる気違いはいない。」(気違い=精神異常者とでもすべきところなのだろうが、 私の意図する意味、語感はこちらのほうが近いので敢えて使う。) などと言うが、誰しも自分は正常であるはずだし、 そうありたいとする強い願望があるものだ。 そういう聞き手に、「心を病んだ結果の事件」と言えば、 誰も自分に照らしては考えまい。 「ああ、可哀想に。自分はまだ幸せだな。」 などと、自分を高所において納得してしまうだろう。 たとえ、その事件の背景に、多少身につまされる部分があったとしても。
自分の「心」を知ることは、簡単なようで難しい。自分の物であって、 しかし、時折、自分自身と葛藤する「心」。ジキルとハイドではないが、 誰もが、慈悲深く建設的な心と攻撃的、破壊的な心の両方を持ち合わせている。 いや、この例えは正確ではないかもしれない。たとえば、攻撃的で建設的な心とか、 慈悲深く、破壊的な心なんてのもあるだろう。言うならば、あらゆる選択肢について、 それを是とする「心」が存在するというほうが正しいのかもしれない。
誰もが、と言ったが、私は他人の心を覗いたことがない。 だから、これは自分が「気違い」でないと仮定して、 自分のケースを一般化しているにすぎないのである。 それでも、そうする以外に論ずる方法がないから、 とりあえずお許し願おう。 もちろん、私は精神科医でも心理学者でもないから、 この考察はまったくの「素人的考察」であるとお断りしておく。
話を戻すが、この無数の選択肢のひとつひとつを決めている基準は何だろう。 毎回、同じ選択肢が選ばれるものもあれば、毎回、変わるものもある。 要素は色々あるだろう。すべての生物に共通な、 生存願望や繁殖願望といったものは非常にわかりやすく論理的だ。 自分の種が永続的繁栄を続けるための選択、次に自分が生き残るための選択。 これらはすべての生命に共通のグローバルな判断基準であり、 すべての生命が生まれながらに持つ、基本的なプログラムである。 人間以外の大半の生物は、この基本プログラムに忠実に生きている。 基本プログラムに優先する判断基準を持ち合わせていないためだろう。 そして、何十億年もの間、この基本プログラムは非常にうまく作動してきた。 基本プログラムに優先する判断基準を行使することを許された、 ある種族が登場するまでは。
神と呼ぶべき者が真に存在するとすれば、この基本プログラムの開発者のことだろう。 そして、「神」が自らに似せて造ったという「人間」は、理性の名の下に、 基本プログラムに優先した判断を行うことを許されたのである。 しかし、この自由と引き換えに人間は多くの苦難を背負い込むことになる。 つまり、自らの運命の多くの部分を自分で決定できるかわりに、 その責任をすべて自分で負わねばならぬという点においてである。 あらかじめ決められた道筋に沿ってではなく、自分で考えて決め、 結果が悪ければ考え直さねばならないのだ。 そして、今やその判断は人類自らのみならず、 地球上のあらゆる生命に影響を及ぼすことは間違いない。 これは、裏返して言えば、地球の全生命に対して責任を負えということにほかならない。 「神」は名実ともに自分の代理として人間を指名したのだ。 これがいわゆる「パンドラの箱」の真実だと私は思う。
ともあれ、開けざるを得ない「パンドラの箱」を慈悲深い「神」から押しつけられた人類は、 悩みという災厄をまず受け取ったのである。自分たちの前途に苦難はあるが限界はないという、 「希望」という名のニンジンをぶらさげられて、この数千年というもの、人間は悩み続けてきたのである。 もちろん、何も初期条件を与えずに放任するほど神も横着ではなかったのだろう。 自らの「教え」という形で、とりあえず無難な基準を与えて行くことは忘れなかった。 但し、これがまた曲者で、異なるグループに、複数の微妙に異なる基準を与え、 いずれ必ず、それを信奉するものたちの間で葛藤が生じるように仕組んであったのだろうと、 私は推測する。結果として、とりあえず無難だった基準の一部は普遍性を失い、 新しい基準を作る必要が生まれるように。 神の教えは、最後にはすべて書き換えられねばならないのだ。人類によって。
というように哲学的?に考えれば、悩みも少しは軽くなろう。 戦前生まれを親に持つ私の世代くらいまでは、 幼い頃に親の価値観で厳しく躾けられることが普通だったように思う。 また、その価値観はおおむね普遍的で、私と隣家の悪童の間でさほど差異はなかった。 つまり、隣の親父が、私が隣家で悪事を働いたカドで、私に一発ゲンコをくれても、 私の親は感謝こそすれ、暴力を抗議する筋合いなどなかったのである。 そこには、明らかに「神」の倫理が存在していた。 もちろん、時代時代の権力者の都合の良いように部分的にゆがめられたりはしていたが、 誰が努力したでもなく普遍的に存在したという点で、これは「神」の基準であった。 少なくとも、日本全国どこをとっても、隣の親父の暴力行為を非難する輩は少数派どころか、 それこそ「気違い」と呼ばれただろう。
戦後、様々な価値観が日本に流入し、 既存の価値観と葛藤を生じた。結果、いくつかの価値観が、旧来のものと交替した。 しかし、古い価値観を駆逐しただけで、自分がその替わりになりえなかったものも多い。 とりわけ欧米産の民主主義的価値観は、旧来の日本の封建的価値観を力ずくで駆逐しはしたものの、 いまだに、本質的に根付いていないように思える。 そもそも、それらの価値観の起点となる「神の教え」の違いによる葛藤なのだろうか。 今の日本は、「普遍的価値観」不在の国のように見える。 そもそも、普遍的な価値観などいらぬ、という人もいるかもしれない。 戦前の暗黒時代の幻影におびえる人もいる。 一方で、戦前の普遍的価値観の再来を求める人もいる。 しかし、声高に叫ぶものの、どちらもいまひとつ決め手に欠け、 一般大衆の支持は得られそうにない。 我々の世代の先輩たる「全共闘」世代の「挫折」以降、 普遍的価値観を求める動きは激減し、かわりに多様性という名の「あいまいさ」が闊歩している。 表向きの葛藤はなりをひそめ、見かけの上の寛容さが日本を支配しているようだ。
しかし、考えてみてほしい。 多様性を認める、つまり、自分の価値観と違うものを許容するということは、 相手の価値観に対する評価をあいまいにすることではないと思う。 今の自分の価値観に照らして相手を評価した上で、相いれない部分について、 自分が譲れる範囲で歩み寄るのである。言い方を変えれば、お互いの価値観が、 影響しあい、結果として、一部、共通の価値観ないしはルールが生じるということになる。 そうでなければ、社会自体が成り立たない。カオスとしかいいようのない状況が生じるに違いない。
このような多様性の容認には必ず葛藤が伴うものだ。 そういう意味で、現代人の悩みの多さは必然とも言える。 まさに、「神」が与え賜うた試練なのだ。
我々日本人、とりわけ一般市民は自らルールを生み出すことに不慣れだと思う。 規制緩和というが、一昔前までは喧嘩の仲裁役としての規制を公権力に求めていたのではないか。 規制緩和そのものを否定するつもりはない。一方的で硬直した規制よりも、 自由な競争から生まれてくるはずのルールのほうがより発展的だからだ。 しかし、規制なしでルールを生み出す力が、はたしてあるのだろうか。 建設業界などの談合はいい例だろう。 公権力による規制がないと、自然発生的に談合組織のような、 規制を肩代わりする組織ができあがってしまいはしないかという危惧が、常につきまとう。 こうなってしまえば、厳密に法に基づくことを(少なくとも表向きは)強制される公権力とは異なり、 リンチ的制裁を拘束力にした、よりタチの悪い規制が闊歩する危険がある。 政府は規制を緩和すると同時に、間接的にこのような動きを排除するしくみを考えるべきだろう。
新しいものを産み出す際に葛藤はつきものだと思う。 葛藤が、悩みがあるということは、その社会や人がまだ発展の可能性を失っていないことの証明でもあるのだ。 行き詰まるということは、言葉を変えて言えば、その社会や人が、 これまでの自分のありかたを再考する必要がある、ということにほかならない。 そう考えて、自分の歩んで来た道をもう一度振り返って見れば、必ず脱出口は見えてくるはずだ。
冒頭の話に戻るが、私は現代人は決して「心を病んで」などいないと思う。 むしろ病んでいるのは日本の社会である。 人間のいたって正常な葛藤を「病気」と決めつける社会があるのだ。 本来、「死」を考えるような悩みなどないはずだ。 死ぬ必要のない犠牲者を社会がなんらかのかたちで、追いつめて殺しているのだ、 と私は思う。 そして、その社会を作り上げているのは我々なのだ。 出口のない不況といわれる現在の日本。社会全体が葛藤することを求められ、 変わることを求められている時、その責任を一個人に押しつけてはならないのだ。 「心を病んで」という言葉は、その裏にある本質を覆い隠すのに都合がいい。 「悩んだあげく」という言葉もそうだ。そもそも、どうしたらその人間が死なずにすんだのか、 という議論はどこからも聞こえてこない。
自殺は究極の逃避である。これによって逃れられないものはない。 葛藤を放棄するということは、即ち(現実逃避などの精神的なものを含めて)自殺に結びつく。 日本の社会は、今、葛藤のさなかにある。 社会的な課題を個人レベルに矮小化したり、あいまいにしたまま放置することは、 社会としての逃避である。 そして、もし、日本がこの葛藤から逃げたならば、 それは即ち、日本という国の自殺にほかならないのだ。
パンドラの箱から最後に出てきたのは、「神の代理」の肩書きの名刺だった。 そして、「神」は、やがて「代理」の文字をはずすことを望んでいる。 われわれ人類は、自ら「神」たらんがために葛藤するのだ。
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