猫なんか、大嫌いだ!


うちの近所の「ドラ猫」ども

うちの近所のドラ猫どもときたら、まったくもって腹に据えかねる奴等である。 どうやら、家の庭は、奴等の格好の抜け道らしい。 少しくらい遠慮して通るのならば、畜生の性と、笑って通そうものを、 我が物顔に、のそり、のそりと、威張り散らして通り抜けていく。 これでは、どっちが家主かわかりやしない。

それだけならば、まだしも、あちこちに、小便はかけるわ、車の上で日向ぼっこをするわ、 おかげで愛車は、猫の足形だらけ。うっかり、縁の戸を開けておこうものならば、 ちゃっかり上がり込んで昼寝をしている。

そんな姿を、家主に見られても、悪びれる様子もなく、人の顔をまじまじと見て、一声、にゃぁ、と鳴く。 追い散らしても、追い散らしても、しばらくすれば元の木阿弥。 一匹が来なくなると、これ幸いと他の奴がやってくる。 縄張り拡張に一役買ったと思えば、余計に腹が立つ。

一度、とっつかまえて、折檻してやろうかとも思うのだが、悔しいかな、敵のほうがすばしっこい。 ハデにやって、そこかしこにいる、いわゆる「動物愛護家」の槍玉に上がるのもつまらぬ話である。 そんなわけで、見つけたら追い払う以外に打つ手がない。 まったく腹立たしい限りである。

中には首輪をつけたり、鈴をつけたりした奴がいることを見ると、どこか近所の飼い猫であるのかもしれない。 一方、海千山千の野良も何匹かいるが、総じて飼い猫風のほうが、あつかましい。 平気で人の家に上がり込むのも、この手合いである。 その点、野良公は自分の分というものを、よく心得ているようだ。 歩くときも、物陰を、遠慮しながらコソコソと歩いている。 逃げ足も速い。逃げ出したら一目散、あっという間に物陰へ隠れてしまう。 飼い猫風はといえば、逃げるフリはするものの、必ず、こっちを見える所にいて、 様子をうかがっている。そして、こっちが追わないとみると、図々しく戻ってくるのである。 時折、縄張り争いであろうか、夜中に、大声を上げて喧嘩をする。 野良公対飼い猫風ならば、勝負は見えている。 次の日、「飼い猫風」が、盛大に引っかきキズを作っていたのを見て、思わず相手の野良公に拍手を送ってしまった。

ともあれ、何故に、こんなに猫が多いのか。 純然たる飼い猫らしいのもいるが、飼い猫風の何割かは捨て猫なのだろう。 甘やかされて飼われていた飼い猫に、宿無し暮らしは辛かろう。 しかし、だからといって、人様の領分を侵していいというほど、世間は甘くない。 突然にして雨風をしのぐ住処を失ったことには同情するが、お前が恨むべき相手は、お前を捨てた飼い主である。 そして私は今日も、哀れな猫を追い立てるのである。


畜生はどっちだ?

もう、20年ほど前の話である。 私はその頃、京都の七本松下立売のボロアパートに住み着いていたのだが、いまだに忘れられない出来事がある。

ある夜更けのこと。 タバコが切れたので、買いに出た私は、七本松通りをあるいていて、かすかな物音に気がついた。 夜更けで、あたりが静まり返っていなかったら気がつかなかっただろう。 「みゅー、みゅー」という猫の、それも、子猫の鳴き声だった。

薄明かりの中を目を凝らしてみると、バス停横の歩道に、段ボールの箱が置いてある。 鳴き声はそのあたりから聞こえてくるのである。 私が近寄ってみると、その箱の中には生まれたばかりの、まだ目も開かない子猫が数匹入れられていた。 何匹かは、外にはいだして、路上をさまよっている。 深夜の車通りのない時間帯が幸いしたようで、幸いにも、無事であった。 しかし、箱のなかには、既に動かない子猫もいる。 生まれて間もなく、親の顔を見ることもなく捨てられたのだろうか。 むごい事をする奴もいるものである。

正直言って、私は扱いに困ってしまった。しかし、そこに放っておくわけにはいかない。 私は下宿に戻ると、後輩をタタキ起こし、一緒に猫を下宿、といっても木造の安アパート、 の庭先に運んだ。

さて、運んだものの、また二人して、ハタと困ってしまった。 このまま放っておいたら、明日には、全部死んでしまうだろう。 さすがに、そんな姿は見るに耐えない。 そこで、生き残った二匹を後輩の部屋に持ち込み、育ててみることにした。 ミルクを人肌にあたため、脱脂綿に含ませて口元に持っていくと、子猫は無心にそれを吸った。 後輩と交代で猫の世話をする日々が始まった。その甲斐あってか、子猫はどんどん元気になり、 みるみる太っていった。

しかし、そんな日々も長くは続かなかった。夜昼なく、腹が空くと鳴く声も、日増しに大きくなり、 とうとう、アパートの古参の住人の耳に入ってしまったのである。 実は、以前、このアパートでは、ちょっとした猫騒動があった。 近所に住み着いたドラ猫が、あちこちの部屋に忍びこんでは悪さを繰り返したのである。 その被害が最も大きかったのが、アパートに、もう長年住んでいる一人のお婆さんの部屋だったわけだ。 悪行を重ねた猫はお縄となり、あえなく保健所送りとなったのだが、お婆さんの怒りは収まるはずもない。 そんな状態だったから、猫を飼っているというだけで、大騒ぎになってしまった。

なんとか、事情を説明しようと試みたものの、大家まで引っぱりだしての剣幕に、どうすることもできず、 あわれな子猫は、とうとう保健所へ送られてしまったのである。 血も涙もない話ではあるが、その老婆を責めることもできないだろう。 実際、猫どもに悪さをされた怒りはよくわかる。 責められるべきは、その猫を捨てた輩である。 生まれてしまった以上、その命は貴重なものである。 捨てる一瞬の呵責に耐えれば、そいつは楽になるかもしれぬが、 浮かばれぬのは、この世に生を受けながら、猫としての尊厳すら保てなかった子猫たちである。 悪行の限りを尽くした野良公ならいざしらず、何の罪もない子猫の事を思うと、20年を経た今でも心が痛むのである。


孤高の老猫

話は今に戻るが、ちょっと変わった猫が近所にいる。 姿は、いわゆる純正の「トラ」猫なのだが、かなりの歳とみえて、いつも決まった場所でひなたぼっこを決め込んでいる。 人が近づいても逃げようともしない。いや、気にすらしていないと言ったほうがいいかもしれない。 人にたとえれば、功成り、名を遂げて、余生を気ままに送る孤高の老人といったところだろう。 さすがの野良公たちも一目置いているのか、同じ場所を動くことなく、縄張りとしているのである。 夏は、あばら家の脇の竹薮の蔭ですずみ、冬は、人通りの少ないアスファルトの歩道で昼寝をする。 悠々自適の老猫は、近所でもなかなかの人気者らしく、とても餌など探す体力はなさそうにもかかわらず、 餌には不自由をしていない。孤高の老猫が人から施しを受けるのか・・・という突っ込みはさておき、 私もこの猫には少なからず好感を持っている。私が猫嫌いなのは、あのわがままな性格の故である。 他人のわがままを許せない人間は、そいつ自身がわがままな奴なのだと誰かが言ったが、まさに、 そのとおりで、私のわがままな性格からして、気まぐれきわまりない猫は、許しがたい存在なのである。 にもかかわらず、その猫は、まさに「猫」であるにもかかわらず、そんな嫌味を感じさせない。 猫にも「年輪」というべきものはあるのだろうか。

毎朝、駅に向かう道の途中に、その猫はいる。「今日も元気でいるな。」と、その横を通って会社に行く。 帰ってくると、薮の蔭に姿が見える。その猫の姿が見えると、なぜかホッとする。姿が見えない時、 暑さ寒さの厳しい時などは、その猫のことが心配になる。 時として、その姿は、郷里に残してきた老いた親と重なる。 もしかすると、彼の猫に感じる気持ちは、親不孝な自分に対する罪悪感であるのかもしれない。 その猫に餌を施すでもなく、ねぐらを与えるでもなく、しかし、その健在を祈る気持ちは、 裏を返せば、親に対する自分勝手を端的に表しているのかもしれない。

ともあれ、そんな私の気持ちなど関係無しに、猫は今日も、その場所にいるのである。 不惑を間近に、いまだ迷いのほうが多い私をあざ笑うかのように、彼(彼女?)は、 いつもその場所にいるのである。 そう思うと、やっぱり少し腹も立つ。そうして、そこで達観しているがいい。 俺は当分の間、せいぜい生臭く生きてやる。迷って、悩んで、苦しんで。 だから、お前は、そんな俺を、そうやって横目で見ていろ。ずっと・・・ そう。猫なんてそんな奴さ!!

だから、俺は猫が嫌いなんだっ!


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0ct. 31 1995 by M.Futagi (二木 真明)

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