孤独を好むという人が少なからずいる。しかし、無人島にいるがごとき本当の孤独に耐えられる人は多くはあるまい。
小学校の頃、用事があって宿直の教師を夜に訪ねたことがある。 トイレに行きたくなって、長い廊下の向こうにあるトイレに行く途中、足がすくんでしまった。 毎日歩いているはずの廊下が、これほど長く恐ろしいものだとは、予想だにしていなかった。 日中は生徒や教師であふれ、歓声がこだましている廊下が、しんと静まりかえって闇に沈んでいる。 コンクリートむきだしの柱、タイルばりの冷たい床、ぼんやり赤く光っている消火栓のランプ。 なにもかもが、大きな口をあけて、自分を深い深い無機質な闇の中に飲み込もうとしているかに思えた。 恐怖で身動きができず、大声で教師を呼んだ。 何事かと教師が駆けつけてくれた時に、涙が出たのを覚えている。 日頃、人にあふれている場所ほど余計に、その人がいなくなると無機的な感じがする。 学校に怪談が多いのも、そういう理由からなのかもしれない。
田舎に生まれ育った若者は、概して都会にあこがれを持つものだ。 因習や、狭い村社会の煩わしい人間関係などは、あるにはあっても昔ほどではあるまい。 情報の遅れはなくなり、生活も、ある意味では都会より豊かになりつつある。 にもかかわらず、若者が都会をめざすのは、そこにいる多くの様々な人間と、そのバイタリティーにあこがれるからだろう。 人が集中する所には、あらゆる物質や、情報や、快楽や、苦痛や、善や悪が集中する。 それらが混然として、巨大なエネルギー源となるのである。 多くの人と接することで、自分のエネルギーを高め、それが相乗効果を生み、社会全体のポテンシャルを高める。 少し前までの東京も、確かにそんな魅力のある街だった。 東京という街の持つポテンシャルは、ある意味では、世界中のどの都市よりも高いように思える。 しかし、最近、そのエネルギーが少し変質してきたように思えてならないのだ。
自分の周辺にいる人間たち、とりわけ仕事や趣味を通じての人間関係に大きな変化はない。 逆に、以前よりも親密になっているようにも感じられる。 反面、そうでない人間達との間はどうかと言うと、きわめて冷めたものになっているのに気がつく。 自分のまわりに人がいるということは、本来、大きな安心感に結びつくものだ。 たとえ、それが見知らぬ他人であったとしても、絶海の孤島に居るよりはマシなはずだ。 しかし、人混みや満員電車が煩わしく感じられ、ときどき無人島にでも逃げ出したいと感じるのは何故だろう。
大都会には様々な人間たちがいる。その中には少なからず、「善人」とはかけはなれた人種だっている。 うっかり気を許せば骨まで喰われてしまう、弱肉強食のジャングルなのだ。 見知らぬ人間に対する必要以上の心理的な壁は、こういった環境から生まれてくるのかもしれない。 そして、それは少なからず、お互いにとってストレスとなる。 譲り合いの精神などと言うが、譲ればとことんつけこまれかねないという不安があるがゆえ、 誰もが傲慢になっていくのだ。 それでも、「善人」にとっては、それが苦痛だ。 自分が傲慢であることに耐え難いものを感じながら、 それでも自分を守ろうとして傲慢であり続けるところに、ストレスのひとつの根っこが存在するのである。
最近の若者は、すぐ「群れる」といわれる。いや、若者に限らず、自分の「身内」に対する防御姿勢は、 年々、次第に強まっているように思われる。 仲間はずれになりたくない。この気持ちは、無意識に「壁」の内側と外側の違いを感じているからである。 「壁」の外に出されてしまうことは、一切の保護を失うことを意味する。 そればかりでなく、攻撃対象にさえなりうるのだ。 「壁」の外では、人は「善人」ではいられない。常に傲慢になって自己防御をせねばならず、それがまた、 悪循環を生み、さらに集団から疎外される結果となる。 「善人」は「壁」の内側にいたいばかりに、自分の願望や欲求を押さえ、その集団に迎合せざるを得ないのである。 集団には必ず「ボス」がいる。「ボス」は集団をまとめる力である。それゆえ、普通、「ボス」は民主的な方法では選ばれない。 力の強い者(といってもこれは単に物理的な力だけではなく、広い意味での政治力のことだ)が「ボス」たりうるのである。 「ボス」の力で集団は成り立っているのだから、その考え方次第で、開放的にも閉鎖的にもなる。 概して、力の弱いボスほど閉鎖的で防御的な集団を作るようだ。 カルトなどは、その極致だろう。 外界との間に高い垣根を作って、内部を特定の価値観で埋める方法は、集団を維持するには効果的だ。 外界に対して、敵対心を煽ることで、結束を固め、集団を維持していく方法は、古来から使われている。 特に日本では、江戸時代の鎖国などは言うに及ばず、大戦中においても国家ぐるみで、この手法が使われた。 極端になれば、外界の価値観を完全に否定し、攻撃行動に出ることもある。 往々にして、それは自己破壊に至る破滅的行為である。オウム真理教、戦前の日本などはいい例だろう。 そして、この攻撃行動を起こすきっかけは、「ボス」の一声であることが多いのだ。 多くの「善良な」人間は、集団から出されたくないばかりに、「ボス」の声に踊るのである。 ここまで極端ではないにしろ、人々の「群れ」志向は、だんだん強くなっているように思えるのだ。
しかし、これは、どこかで見た光景ではないか。 かつて、自分が田舎を飛び出した頃、最も嫌だった「村社会」そのものではないか。 社会のバイタリティーを阻害する最大の原因だと思いこんでいた「村社会」が、 大都会東京の、あちらこちらに存在しているのだ。 学校で、会社で、渋谷で、新宿で・・・・。様々な「村」が街を闊歩している。 いまや、大都市東京は広大で危険きわまりないジャングルと化し、そのあちらこちらに、小規模な村が出来て、 人々が暮らしている。 「村社会」からの脱却を志し、多くの人間と接することでバイタリティーを得ようと東京を目指した人の多くが、 この新しい「村」に吸収されてしまっているというのも皮肉な話だ。
遷都論が叫ばれる今日、いまだに東京を目指して人は集まってくる。それだけ、東京は魅力的な街なのである。 いや、今やむしろ、日本中の希望や夢や欲望を吸いつくすブラックホールと言ったほうがいいかもしれない。 あまりに多くの夢や希望を吸い込んだがために、それ自身の重みで崩壊してしまったのだ。 しかし、崩壊した今もなお、強大な力で、あらゆるものを吸い込み続けている。 このブラックホール東京を封じるという点で遷都論は魅力的だ。 しかし、新たなブラックホールを生み出すような愚だけは避けねばなるまい。 遷都したとしてもなお、東京は、日本の中心都市としての地位を守り続けるだろうし、 その吸引力は多少弱まるものの、なくなりはしない。 もし、新たなブラックホールが生まれてしまえば、そこには東京からではなく、 他の地域から、さらに大量の人や情報や、あらゆるものが流れ込むことになる。 これでは、また新たな集中を作ってしまうことになるのだ。 このような愚だけは決して犯してはならない。 地方の活性化こそが、東京集中を緩和し、逆に、東京をまた真の意味で活気あふれる街にするだろう。 すべての情報を独占し、発信している東京。しかし、地方発の情報が東京に変化を与えることだって、 あっていいはずだ。
東京に出てきた地方出身者は、みんな「東京人」になろうとする。 そうでないのは、大阪が日本の首都だと勘違いしている大阪人くらいだろう。 彼らのように、粋がって大阪弁を振りまけとまでは言わないが、 自分の郷里の良いところくらいは主張していいのではないか。 日本語バイリンガルを自称する私なんかも、大阪人相手には大阪弁、関東人相手には東京弁(標準語というと関西人が怒るのである) と使い分ける。東京では「東京人風」、大阪では「大阪人風」と都合良く調子を合わせているが、やはり、多少、自分の田舎に対しては、 コンプレックスを抱いている。 地方人が都会に抱くコンプレックスには様々な理由がある。言葉の問題、そして、経済的貧困。 遷都を言う前に、このコンプレックスの原因を取り除くだけの投資を地方に対して行い、 地方人が「東京人」の蓑をかぶらずに、東京で活動できるようにすることが重要だろう。 日本の中心が東京であることは変わらなくても、東京に住まずとも、東京のエネルギーを享受できることが、 過度の集中をくい止める有効な方法ではないだろうか。
私は東京が好きだ。そこには、底知れぬエネルギーがある。 しかし、また、そのエネルギーを享受するために、多くのエネルギーを使わなければならないのも現実だ。 自分の中の、エネルギーが底をついた時、人は、敗北感を味わいながら表舞台を去っていく。 人であふれる東京、しかし、その中で感じる孤独感こそが、今の東京の現実を物語っているのである。
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Nov. 12 1995