迷いの森の亡霊

4.憂鬱な朝に


 けたたましい目覚まし時計の音が、健の眠りに終止符を打った。

 もう朝なのか。昨日の出来事がどうしても頭を離れず、なかなか寝付くことができなかった健である。 眠った気がしないのは当然だろう。いつもは寝起きのいい健だったが、 今朝ばかりはベッドの上でしばらく自分と格闘せざるを得なかった。

 ようやくのことで、ベッドへの未練を断ち切った健は、テレビのリモコンを取ってスイッチを入れ、 洗面所で顔を洗い始めた。

 「なんてツラしてんだろうな。」

 鏡に映った自分の顔を見て、健はつぶやいた。冷たい水で思いきり顔を洗うと、 冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、そのまま勢いよく飲んだ。 食パン二枚をトースターに入れ、冷蔵庫から牛乳パックを取り出してテーブルに置いた健は、 椅子にどっかと腰をおろすと、まだ眠そうに目をこすった。

 テレビでは、いつものとおりのニュースキャスターが朝のニュースを単調に読み上げている。

 「日本時間の昨夜、米国西海岸で大規模な航空管制のトラブルが発生しました。」

 おや、と健はテレビに目をやった。

 「昨夜、シアトルとロサンゼルスにある米国航空局の管制用コンピュータが同時に故障し、 3時間にわたって、西海岸全域の空港で航空機が離陸できなくなる事故が発生しました。」

 故障か・・・。どうせバグだろうな。と健は思った。 この種の事故は、規模は小さいものの日本でも何度か発生している。 管制用のコンピュータは、故障に備えて常に複数のコンピュータを代替え用として用意してある。 単純な故障などで管制がストップすることは皆無に等しい。 そのコンピュータが、たびたび「故障」する原因のほとんどは、 ソフトウエアの不具合、つまり「バグ」なのである。

いくら代替え機があったところで、それに搭載されるソフトウエアはすべて同じ。 つまりバグの発生で、すべてのコンピュータが同じトラブルを同時に発生するのである。 これでは、高い金を出して何台コンピュータを用意したところで、まったく無意味なわけだ。

 「原因は米国航空局で調査中ですが、専門家の分析では、 管制用ソフトウエアの不具合が原因ではないかと・・・・」

 健はニヤリと笑った。無敵のコンピュータも、そのプログラムは誤りだらけの人間様が書いてるんだ。 間違いもあるさ。コンピュータだからといって絶対の信頼を置いてしまうような風潮が強まれば、 いつか、とりかえしのつかない大事故が起きるかもしれないな。

 軽い電子音が響いた。トースターからキツネ色に焼けたパンが静かに吐き出された。 こんなものにまで、最近ではコンピュータが内蔵されている。 なんでも、外側だけ、サッと焼いて、中身はふっくらしたままなのだそうだ。 そういえば、昔、インターネットにトースターを繋ぐというジョークが米国で流行ったことがあった。 意味のないことだが、あらゆるものをネットワークで接続することの例えなのだそうだ。

 たっぷりマーガリンを塗ったパンをほおばりながら、健はパソコンの画面を覗いた。 画面の隅の郵便ポストのマークに旗が立っている。電子メールが届いている印だ。 健はポストをマウスでクリックし、メールを表示させた。 昨日、健が会社から転送した玲子からのメールである。 家に帰ってから、ゆっくり読むつもりだったのだが、例の事件のおかげですっかり忘れていた。

  「愛する健へ・・・」

 こんな書き出しで始まる、玲子からのメールは、 読みながら赤面してしまうほどの熱烈なものだった。 たぶん、テレ屋の健がどんな顔をしてこのメールを読むかは、玲子には容易に想像できたに違いない。 玲子の計算どおりに、健はくわえていたパンを床に落として気づかないほど、舞い上がってしまっていた。

 しかし、健の幸せな時間は、またもや、今度は8時の時報に打ち砕かれてしまった。 今朝は、9時に本田と待ち合わせて、 例のシステムの発注元のメーカーを訪問することになっていたのだった。 健は大慌てで支度をすると、家を飛び出した。 駅までは歩けば10分、しかし、今朝は5分で行かないと電車に間に合わない。 健はいましがた食べたパンと牛乳が、胃袋の中でほどよくシェイクされる感覚を味わいつつ、 一目散に駅へかけ込んだ。

 幸い、電車には間にあったが、いつも以上の混雑ぶり。 おまけに、胃の中では、牛乳とパンがいい加減に泡立って、爆発寸前。 走って荒れた息はなかなか収まらない。 寿司詰めの車内で、健は目を白黒させるハメになった。

 いつもなら、あっと言う間の30分が、今朝はどんなに長く感じたことか。 やがて車内のアナウンスが終着駅を告げ、健は大きく息をついた。 その時、いきなり体が大きく揺れて、車内が騒然となった。 電車が急停車したのである。

 「緊急信号を受信して停車しました。しばらくお待ちください。」

 車内のアナウンスが告げる。やれやれ、またか。最近、この種の停車が多すぎるな。 健は溜息をついた。最近では、電車も自動化が進んでいる。 運転手こそ必要だが、その運転手がたよりとする信号や、非常ブレーキなどは、 すべて運行管理のコンピュータで集中制御されている。 これによって、前の電車が見えるような間隔で電車を運転できるのだ。

何か、沿線に問題が生じると、コンピュータは電車に一斉停止を指令する。 その結果がこれである。コンピュータがとにかく危険防止のため電車を停止させ、 それから人間が原因を調べ、取り除いてから発車させる。 このような手順であるため、とにかく、何かあると、すぐに電車が止まる。 第一判断をコンピュータが行うため、確実なようだが、 そのコンピュータが故障すると、時として大惨事を引き起こす。 数年前、全自動運転の新交通システムが暴走して高架から転落し、 多くの乗客が怪我をする事故が起きた。 確かに、止まらないで事故を起こすくらいならば、止まったほうがマシだろうが、だからと言って、 この朝の忙しい時に止められては迷惑である。 トラブルの際、すべて安全側に倒すという、合理的なフェイルセーフの考え方も、 人間の神経には、少なからず悪いものらしい。 健は少し苛立ちを感じながら、電車が動くのを待った。

 どのくらい止まっていたのだろうか。何度か、同じようなアナウンスがあったきりで、 電車は一向に動く気配がない。あと、駅まで2,300mのところにいながら、 待たされている苛立ちからか、車内は少々ざわつき始めていた。

 「お急ぎのところ、まことにご迷惑様です。ただいま、列車司令所より、 コンピュータ故障のため、信号制御ができなくなったとの連絡が入りました。 現在、手動にて復旧を行っております。 まもなく発車できる見通しですので、いましばらくお待ち下さい。」

 おやおや、これは重傷だな、と健は思った。いずれにせよ、 これでは間に合いそうもない。よりによってこんな時に、と思うと腹立たしかった。 連絡しようにも、この状況ではどうにもならない。まぁ、しょうがないか。 言い訳はできるさ。健は目を閉じた。

 不意にガタンと電車が動いた。電車はノロノロと走って、やがて駅のホームにたどり着いた。 人混みに揉まれて、駅から押し出された健は、小走りに本田との待ち合わせ場所へ向かった。 既に、待ち合わせ時刻を20分ほど過ぎて、本田の姿はなかった。 本田がいないことを確認すると、健は、少し先に見える高層ビルのひとつへと足を向けた。


5. 目眩い

INDEX ページへ

私のホームページへ


Copyright(C) 1995-96 M.Futagi All right reserved.

無断転載、引用、いかなる改編も禁じます。