迷いの森の亡霊

3.トラブルのはじまり


 仕事を始めると、それに没頭してしまう健だったが、 そろそろ日も暮れようかという頃になって、腹が減ってきたのに気がついた。

さすがの仕事の虫も空腹には勝てなかったようで、彼は手を休めると、大きく背伸びをした。

そのとき、部屋の扉が開いて(といってもこっちは、現実の扉のほうである)若い女性が入ってきた。

  「こんばんわ。連休だってのに、仕事なんかして。お疲れさまです。」

 坂井紀子、彼女は健の仕事を手伝っているアルバイトの女子大生である。 とはいっても情報工学専攻の3年生、パソコンは小学生の時からプログラムを書いていたというだけあって、 健たち技術者も顔負けの部分がある。

  「そっちこそ、こんな休みにどうしたんだい。」

 椅子にふんぞりかえっている健が言う。

  「へへへ、ちょっと、おデートの帰りに前を通ったら明かりがついてたんで、寄ってみたんですよ。」

  「ほぉ、デートか。物好きな男も・・いや失言失言・・」

 紀子はちょっとふくれっつらをして、健を蹴飛ばすふりをした。

  「例の問題、解決しました?」

  「ああ、ちょっと姑息な手を使ったけど、なんとか回避できたみたいだ。」

  「ほんとかなぁ、この前もそんなことを言って、バグ出したくせに。」

  「あのな、今度は大丈夫だって。」

 彼らプログラマーはプログラム上のミスをバグと呼ぶ習慣を持っている。 小さな蛾のような虫を意味する言葉で、真空管を使用していた初期のコンピュータが、 回路網に入り込んだ虫が原因で、よく故障したことが、由来である。 それが、極超LSIの時代になっても、いまだに受け継がれているのだ。

  「はい、お土産」

 紀子は持ってきた紙袋を近くの机に置いて中からハンバーガーを取り出した。

  「お、ラッキー。ちょうど腹が減ってたんだ。気がきくねぇ。」

  「はは、そんなことじゃないかと思ったんで買ってきたの。」

  「いただきます。」

 健がハンバーガーをほおばっている間、紀子は、健の机に座って操作をしていた。

  「へぇ、ちゃんと直ってるんだ。」

  「あたりまえだろ。」

 ハンバーガーを口にくわえた健が言った。

  「ふーん。上デキだね・・え、・・・」

 突然、紀子は凍りついたようになって、次の瞬間に叫び声をあげた。

  「きゃっ。なぁにぃ、これ・・・」

 立ち上がって、机からとびのいた紀子を見て、健と本田が駆け寄った。

  「どうした。」

 「こ、これ見て・・。ゴキブ・・・」

 見ると、机の上を大きなゴキブリがはい廻っているではないか。

  「うーむ、よく出来てるな。お前の作品か。」

 健を見て本田が言う。

  「違いますよ。誰だよ、こんな気色の悪いものを作ったのは。」

 ゴキブリはゴキブリでも、ディスプレイ上に表示された絵である。 しかし、ディスプレイの精度が良くて、また、絵がよく出来ているため、 ちょっと見ると本物と見分けがつかないくらいである。 紀子が驚くのも無理はない。

 ゴキブリは、本棚のひとつに近づくと、それを旨そうに喰いだした。 本棚の絵は、みるみる崩れて消えていく。

  「驚いたな、どうやって作ったんだ。」

 健は無造作にペンを取ると、上からゴキブリを思いきり突っついた。 すると、ゴキブリは潰れて、見るもおぞましい残骸となった。

  「やだぁ、やめてよ、気持ち悪い」

 紀子が叫んだ。健はなにやら操作をしていたが、やがて、 机の横にあったスイッチを切って、コンピュータを再起動させた。

(後日注:現在の技術レベルでは、このような問題に遭遇した際、PCはネットワークから切り離した状態で、電源を切らないでおく、というのが一般的な対処法です。記憶装置上も含めて、現状を保存し、解析できるようにするためです。この物語では、電源断と同時にメモリ上も含めた全情報が、すべて保存されるような技術が採用されていることが前提ですから、実際にウイルス感染等に遭遇した際は、まずネットワークケーブルを抜き、あとは専門家の手に委ねましょう。)

  「誰かが外部からプログラムを送り込んだようですね。」

  「社内の人間か?」

  「でしょうね。外部からではファイアウォールを越えられないはずですから」

 社内にあるコンピュータはすべてネットワークで結合され、それがまた、 前述のインターネットを経由して世界中と接続されてはいるが、 外部から勝手に社内に対して侵入できないように、 ファイアウォール(防火壁)と呼ばれる機構があって、常に監視をしている。 このため、許された人間以外は内部に入り込めないのだ。

  「こんなことをしそうな人間は、うちの部にしかいないはずだがな。」

  「ネットワークの通信記録を調べてみましょうか」

 健と本田が思案している間中、紀子は気分悪そうに黙り込んでいた。 健は部屋から飛び出して行ったが、やがて、紙の束を握りしめて帰ってきた。

  「記録には何も残ってません。」

  「そうか、厄介な話だな。」

  「もし、なんらかの方法で外部の者が、このコンピュータに侵入して、 内容を見たのだとしたら、大問題になりかねませんね。」

  「当面、念のため、他のコンピュータからのアクセスは全部禁止してくれ。 君の家からもアクセスできなくなるが、止むを得ないだろう。」

  「しかたないですね。わかりました。」

 二人が話している間に、紀子は問題のコンピュータに向かって、何か操作をしていたが、振り返ると叫んだ。

  「ねぇ。見てよ。プログラムが残ってる。これを調べれば、何かわからないかな。」

  「本当だ。いきなり電源を切ったから消える間もなく、残ったみたいだな。」

  「しかし、これを調べるのは大変だぞ。」

 コンピュータのプログラムは、普通は、実行形式と呼ばれる、機械にしか理解できない命令コードの集合体である。 人間にわかる形で作られたプログラムは、コンピュータに渡す前に、 コンパイラという翻訳プログラムを使って、機械がすぐに実行できるコードに変換されてしまう。 このため、プログラムの動きを知るには、コンパイラが行ったのと逆の操作を行う必要がある。 コンパイラの翻訳方法には、様々な形があり、単純に逆変換ができないため、これは至難の作業である。

  「私に任せてみない?」

 と紀子が言う。

  「大丈夫か?」

  「これでもアセンブラは得意なのよ。」

  「アセンブラときたか。天然記念物め。」

 アセンブラとは、コンピュータの機械語を人間にわかりやすいように命令を表す単語で表記したもので、 プログラム用の言語としては最下級のものである。 昔は、ちょっと複雑な処理は、このアセンブラで作るのが普通だったが、 コンピュータとコンパイラの進歩で、最近では、アセンブラを使う機会はほとんどなくなっている。

  「中学の頃に、ちょっと凝ってたの。CPUの仕組みとかがわかって面白いものね。」

 CPUとはコンピュータの計算を司る中央制御装置のことで、今のコンピュータでは、 たった一個のVLSIチップである。 アセンブラ言語の命令は、このCPUの内部の機構を直接制御することが出来る。 逆に言えば、CPUの内部を知らないとプログラムは書けないのである。

  「任せてみるか。お嬢さんに。」

 と本田。

  「任せてください。一週間もあれば、解読して見せますから。」

 得意満面の紀子に、今度は健がふくれっつらで返した。


 そんな大騒動で、健が家に帰り着いたのはすでに日付も変わった真夜中だった。

今日の事件は健にとっては、かなり衝撃的なものだった。 自分が知り尽くしているはずのシステムに何者かが侵入したばかりでなく、 それを隠そうともせず、あざ笑うように、置き土産をしていったのである。

薄暗い部屋で、ベッドに体を投げ出した健は、頭の中で今日の出来事の細部をなぞっていた。

 「部内の人間の仕業なのか。」

しかし、健にはそのようなことをしそうな同僚の心当たりはなかった。 だが、もし社外の人間であるならば、さらに深刻な問題に発展しかねない。 つまり、外部と社内のネットワークを仕切っている防御機構(ファイアーウォール)が破られたことになるのだ。 これは、外部の何者かが、社内の重要情報にアクセスできることを意味する。

健の会社のように、高度な技術の開発を請け負うベンチャー企業にとっては、 これは信用失墜につながりかねない大問題である。

もし、社内の人間のちょっとしたイタズラだったにしても、少なくとも、 こういった悪さが可能なセキュリティー上の問題点が存在していることは、もはや疑いようがない。

いずれにせよ、犯人を割り出し、手口を明らかにした上で、対策を講じる必要がある。

明日からしばらくは戦争だ。正月はあきらめよう。

健は憂鬱そうに布団をかぶった。


4. 憂鬱な朝に

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