迷いの森の亡霊

2.サイバースペースの住人


 それから、二人がどうなったかは語るまい。 少なくとも、翌日、遅くに目のまわりにクマを作って出社してきた健の姿を見れば想像がつこうというものだ。

  「お早いお出ましだな。どうした?飲み過ぎか。」

部屋にはいるなり飛んできたのはマネージャの本田の声だった。

  「ま、そんなとこです。」

健はニヤリと笑うと、自分の机に手を置いた。 机の表面が明るくなって、その中心にメッセージが現れた。

  「IDカードをセットしてください」

健はポケットから一枚のカードを出すと机の前面にある差し込み口に入れた。

  「サインをどうぞ」

健は、ペンホルダーからペンを取ると、机の上の四角い表示の上になにやら書きこんだ。

  「健さん、おはようございます。」

流ちょうな女性の声で、机がしゃべった。 この机は、あるコンピュータメーカーの依頼で健の会社が開発中の新製品である。

机の表面は全体が表示パネルで覆われ、全面に情報の表示ができる。 ちょうど、広げた新聞がすべて表示できる大きさと精度を持ったディスプレイを持つ、 このデスク型パソコンは、洗練されたグラフィカル・ユーザー・インターフェイスつまり、 視覚的な操作環境を実現している。

指示は音声か、ペン操作によって行い、結果は、机の面の任意の場所に表示される。 基本的なソフトウエアは、米国のM社が先頃リリースした最新のソフトをもとに健が改良を加えたものである。

従来のパソコンでは、せいぜいA4サイズの紙に書いた程度のデータしか一度に表示できなかったが、 この製品では新聞の見開き全部を表示できる。

ディスプレイは、某メーカーが新しく開発したアクティブディスプレイデバイスで、 まるで紙に書いた文字をみているような見事な精度である。

ペーパーレス化なる言葉が、もう何十年も前から言われながら、 21世紀を間際にして、いまだ、オフィスの机の上は書類の山というのが現実である。 その原因の一つが貧弱で場所をとるCRTディスプレイである。

小型化の期待を背負った液晶ディスプレイはその精度の悪さと製造の難しさから、 小型のノート型パソコンの小さなディスプレイの域から出ていない。 しかし、この新しいデバイスは特殊な方法で、 ガラス面上に現在の超LSIと同じ精度で回路を成長させる技術を使用している。 これによって、ディスプレイの精度は圧倒的に向上し、製造コストは低下する。

まだ試験品だが、来る新世紀の目玉として、コンピュータのみならず、 エレクトロニクスの世界に革命をもたらすに違いないと健は思っていた。

画面が切り替わり、様々なマークが現れた。

書類バインダやファイル、本棚などを模したもの、電話を模したもの、 テレビやテープレコーダー、VTRなどのマークもある。 書類受け、そして郵便箱も。

アイコンと呼ばれるこれらのシンボルは、 すべて、その模様があらわしている機能をコンピュータ上で実現しているプログラムを示す、 仮想的なオブジェクト(物体)である。

これらを特殊なペンで触れることで、バインダから書類を取り出して、 表示したり、電話をかけたり、テレビを見たりということが、この机の上で、 すべて出来るのだ。

机の片隅で郵便受けのマークが点滅しているのに気がついた健は、それをペンでつっついた。

  「メールが2通届いています。[表示]」

健が[表示]と書かれた部分をペンで触れると、中央にA4用紙くらいの窓が表示されて、その中に文章が現れた。

電子メールの最初の一通は玲子からのものだった。 内容はというと、ちょっと読んだ健が赤面してあわてて閉じたことから想像できるだろう。 実は、このメールは健の家宛に届いたものだったのだが、会社に居ることが圧倒的に多い健は、 家のパソコンに電子メールを会社に転送するように指示してあったのだった。

健の家のパソコンも、会社のネットワークも、すべて、 インターネットと呼ばれる世界的なコンピュータ通信網に接続されている。 このネットワークによって、電子メールは世界のどこへでも瞬時に届くし、 様々な情報にも簡単にアクセスできるのである。

インターネットはこの5年くらいの間に世界的に広がったネットワークで、 各国の様々な機関、企業、個人のコンピュータが接続された巨大な通信網である。 80年代初頭くらいから米国で実験的に行われてきたインターネットは、 それに目を付けた企業、とりわけプロバイダとよばれる接続サービス企業によって、 この5年ほどの間に知らない人はいないほどに有名になった。 いまや、健や玲子のように自宅からインターネットにアクセスできる人口は、 日本だけでも500万人はくだらない。

玲子は気をつかって、健の自宅あて送ったのだが、それが、 そのまま会社に転送されてしまうことは気がつかなかったに違いない。

かくて、熱烈な恋文はといえば・・・・

  「おや、ラブレターかい?。隅におけない奴だな。」

しっかり、本田の目にとまってしまったのだった。

  「あ、いや・・・、これは・・」

あわてる健に本田が笑って言った。

  「無条件に転送するからだよ。彼女だったら選択転送機能ではずしておけばいいんだ。」

そう、発信人を見て転送するかどうか判断する機能もあるのだが、 彼女のメールを会社で読みたい時だってあるのだ。

  「そうですね。失敗しました。」

健は素直に笑って答えた。

昔の液晶ディスプレイだったら、この角度からは見えないんだが、などと妙な懐古主義に陥りながらも、 メールを家に逆転送して削除すると、2通目のメールを開いた。

  「あれ、榊さんからだ。なんだろう。」

榊は、健の会社に、このシステムの開発を依頼した大手コンピュータメーカーの部長である。 これまでも、業務上の連絡はすべて電子メールで行われてきたので、特に不思議な事ではなかったのだが、 こんな休日に珍しい事もあるものだと健は思った。

重要な打ち合わせがあるので、明日朝一番に本田ともども来社してほしいという内容であった。

  「また、仕様変更じゃないの?」
  「ありうるな。まったく困ったもんだよ。」

健は本田と顔を見合わせて肩をすくめて見せた。 技術的には負けやしないという自負こそあるものの、所詮は下請け。 お客様の要望は聞かなければならない。 合意後の仕様変更は有償なんて覚え書きはあっても、結局は営業が言い負けて帰ってくるのである。 21世紀になっても、日本のこの風土は変わらないだろうと、健はあきらめ気味で思った。

  「やれやれ、これで正月も仕事だ。」

健は、どっかと椅子に腰を下ろすと、ペンを取って操作を始めた。 机の端に表示されている扉のマークに触れると、机の様子が一変した。

机の上には、電車の路線図のような図が表示された。 これは、彼の会社のコンピュータとネットワークの地図である。 中央にある大きな丸い図形は、会社の情報システムの中核ともいうべきサーバーコンピューター。 手元の色が変わっている小さな四角は、健のコンピュータというように、 会社の中のコンピュータとその間のつながりが一目でわかる仕組みになっている。

彼は、サーバーコンピュータのマークを触った。 すると、今度は、無数の本棚や磁気ディスクの模様があらわれた。 これは、サーバーコンピュータに格納されている文書やデータ、プログラムなどを表している。

彼は、扉を触って、サーバーから外に出ると、さらにそこの扉に触れた。 すると、また様子が一変し、今度は日本地図があらわれた。 インターネットの回線網と主要な接続ポイントの図である。

ここからさらに、インターネットに接続されている他のコンピュータや、 必要ならば外国のコンピュータにも、ペンで触れるだけで接続できる。 もちろん、相手がそれを認めればの話ではあるが。

インターネットは、このように、誰もが他人の玄関をノックできる。 もし、扉に鍵がかけてないとするならば、簡単に家の中へ入ってしまうこともできる。 これは、都市空間の中に存在する建築物に似ている。 人々は道路を通ってどこへでも行くことが出来る。

しかし入ることを許されない場所や建物、部屋などは存在するのである。 健の仕事は、インターネットを含めたすべてのネットワークで接続されたコンピュータを建築物に見立て、 回線網を道路に見立てて、全体を仮想的な世界として扱えるようなソフトウエアの開発だった。

彼は、次に国際回線の一つにふれ、地図は、海を越えたアメリカの地図にかわった。 さらに、ワシントンDCの位置のマークに触れ、地図を切り替えてから、 その中のホワイトハウスのマークに触れた。

机の上には、ホワイトハウスの内部のコンピュータが表示されるが、 そのほとんどには×マークがついていた。 このマークがついているコンピュータにはアクセスできないことがわかっている。 特別に許されたものしかアクセスができないのである。 さらに、重要なコンピュータは表示さえされない。

このように世界中に広がるインターネットでは、立入を禁止された区域は珍しくない。 各国の国家機関の多くがインターネットに接続されてはいるが、 建物ごと×がつくものも少なくないのだ。 企業にしても同様である。 多くの場合、ひとつだけのコンピュータがアクセス可能であり、 そこから、その企業や団体についての情報を得ることができるのである。

インターネットの黎明期には、電子メールやWWWと呼ばれる情報表示機構や、 様々なサービスが個々、個別に行われていたが、2年ほどまえから、 これらをすべて統合して扱うソフトが標準化されたため、このように、 すべてのコンピュータへの統一的なアクセスが可能になったのである。

健のソフトの完成で、インターネットを仮想の世界として扱い、その中で様々な、 現実の社会と同じような営みを行わせることが可能になる。 これまで、単なる通信網であったインターネットが本当のサイバースペース(電脳空間)となる日も近いのだ。

  「よし、OKだな。」

健はつぶやくと、ひとつのマークに触れた。 すると、表示はまた、彼のコンピュータの中を示す表示に戻った。

  「おや、また、田口さん、来てるな。」

見れば、彼のコンピュータの画面の中に人の形をしたマークが表示されていて、 その下に[田口]と書かれている。 そのマークは本棚のひとつと重なっていた。

この人の形のマークは、誰かが彼のコンピュータをアクセスしていることを示している。 彼のコンピュータは、部内の人間ならば誰でもアクセスできるようになっており、 田口も仕事は違うが、同じ部の先輩である。

先日、田口より、参考にしたいプログラムがあるので見せてほしいと頼まれていたから、 彼が入って来たとしても不思議ではない。 必要であれば、ただちにアクセスをやめさせることも出来るのだが、 そんな理由は健にはなかった。

マークが本棚と重なっているのは、田口が、その本棚の中にある書類を読んでいるからである。 健は本棚に触れた。本棚が開いて、バインダが何冊かあらわれた。 田口のマークは、そのバインダのひとつに重なっている。

こうして、コンピュータの所有者は、ゲストが何をしているかも監視できるようになっているのだ。 彼が読んでいる書類は、健のプロジェクトの基本設計書らしい。

  「こんなものまで読んでるのか。」

たぶん、健のコンピュータに立ち寄った田口は、面白そうな書類を見つけて読みふけっているに違いない。 重要なプロジェクトだけに、あまり好ましいことではなかったが、 田口は少なくとも信用できる人間の一人ではある。

健が使っているソフトは、まだ、社内には他になかったし、 田口は旧式な方法で彼のコンピュータにアクセスしているため、 こうして行動を監視されていることは知らないはずである。

  「今回は見逃そう。彼が出ていったら、この本棚はアクセスできないようにすればいいさ。」

健は思った。彼は本棚を閉じると、制作中のプログラムを画面に呼び出して手直しをはじめた。


3. トラブルのはじまり

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