迷いの森の亡霊

1.世紀末の街角


 轟音をあげてバスが通り過ぎたあと、一瞬の静寂があって、ジングルベルが聞こえてきた。

 西暦2000年12月24日、東京は晴れ上がって、珍しく、星が見えた。

 あと、数日で、長かった世紀が幕を閉じるというのに、道行く人々の青白い顔には何の変化もない。 これまで、何年も続いてきた、いつものクリスマス・イブがそこにあった。

 歩道の青信号が点滅をはじめ、やがて赤に変わったところを、一人の男が一目散にかけ込んできた。
吉田健(たけし)、29歳。 都内の小さなソフトウエアメーカーに勤めるエンジニアである。
そもそも、こんな日の夜に大の男が息を切らせて走る理由は一つしかなかろう。 時計は8時を10分ほど廻りこんでいた。 日曜、それも土曜が祝日と重なって三連休の中日だというのに、 会社で仕事に引っかかっていた彼は、待ち合わせに遅刻してしまったのである。 ちなみに、昨年から日曜に加えて土曜と祝日が重なった場合、 月曜が休みになるように法律が改正されているのである。

 待ち合わせの相手は、大学時代の同窓で、1年後輩の中原玲子。
彼女も、同じソフトウエアメーカー勤務、しかし、こちらは、超大手のしかも研究室勤務とあって、 いつも、健は頭が上がらない。
玲子は穏やかな性格で、アバウトなO型性格まるだしの健と付き合って8年にもなると言うのに、 喧嘩は3回しかしていない。

 そんな玲子だから、健も結構いい加減な事をしても平気でいられたし、 デートに30分遅刻など毎度の事だったのだが、今日はちょっと日が悪かった。 前回のデートを私用で、しかも、連絡無しにすっぽかした健は、 それが原因で、8年間で3回目の大喧嘩を2日前にしてしまったのだった。 昨日、電話で4時間かけて謝って、やっと許して貰ったというのに、これですべて水の泡。

 なかばヤケ気味に、健は走っていた。
息をきらせて誠意を見せようなんて、打算ができる男ではない。 とにかく、「まずい、ヤバい・・・」という言葉が、彼の頭の中でグルグルと渦巻いているだけである。 待ち合わせ場所の噴水の前についた時には健の頭の中は真っ白になっていた。

 しばらく、茫然自失、息があれるままに、立木にもたれかかっていた健だったが、 はっと我に返って、噴水の回りを見渡した。

 何度か噴水の回りを小走りにまわったが、玲子の姿はどこにもない。 さすがの健も、顔が蒼ざめた。
一昨日のあの剣幕からして、もしかすると最悪の事態も考えられないわけではない。 滅多に怒らない玲子ではあったが、これがまた怒ると、すさまじいのだ。 感情的にもなるが、健の言い訳はことごとく論破され、平謝りになるまでは、 絶対に許してもらえない。
少なくとも、健もかなりプライドの高い男である。 これまで、破局とならなかったのは、すべて健が折れたからなのだが、 当然の報いとはいえ、本当に玲子のことが好きじゃなかったら、 たぶん、そんなことはできなかっただろう。

 しかし、それも今夜まで。さすがの健も覚悟を決めざるを得なくなった。

「終わっちまったかな・・・」

 健はつぶやくと、冷え切ったベンチに座り込んだ。 聞こえてくるジングル・ベルが、やけに腹立たしく思えた。

 しばらく、8年間の感傷にひたっていた健だったが、さすがに、イブの寒さは身にしみる。 しょうがないから、一杯ひっかけて帰ろうと腰を上げたその時だった。

「ごめんなさ〜い」

玲子の声だ。健が振り向くと、髪を振り乱した玲子がいた。

「仕事で、帰れなくて・・・、本当に、ごめんなさい、ごめんなさい・・・」

玲子は今にも泣きそうな顔である。健は一瞬、事の次第を理解できなかった。

「一昨日、あんな事いっといて、遅れちゃうなんて・・・、 きっと怒って帰っちゃったんじゃないかって思ってた。」

どうやら、大遅刻は玲子だったようだ。健はホッっと胸を撫で下ろしたい心境だったが、 玲子のあまりの狼狽ぶりに、しばらく、言葉が出なかった。

「やっぱり、怒ってるの? そうよね、怒るよね。」

どうやら、そんな健を、玲子はまた誤解したらしい。

「怒ってないって。仕事だったらしょうがないよ。俺なんてしょっちゅうだもんな。」

「本当?、本当に怒ってない?」

「本当だよ、怒ってなんかいないよ。」

玲子は、心底ホッとした顔をして、健に抱きついた。

「おい、よせったら・・・」

そういいながら、玲子を抱き寄せた健のほうが、 実は神に感謝したい心境だったのは言うまでもない。

遠くでチャペルの鐘の音が響いていた。


2. サイバースペースの住人

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