5.深み・・・

ここはどこだ・・・・。篠原は朦朧とした意識の中で思った。夢と現実の境目から現実に引き戻される瞬間、薄暗い灯りに照らし出されたホテルの部屋は牢獄のようにも思えた。我に返った篠原は枕元の時計を見た。午前2時、知人たちと夕食を共にしたあと、ホテルに帰ったのが午後9時頃、そのままベッドに倒れ込んで寝てしまったようだ。米国についてから2日たったが、まだ時差ぼけは治るはずもない。こんな時間に目が覚めてしまうと、だいたいが朝まで眠れない。どうせならば、と篠原は起きあがると、冷蔵庫を開けペットボトルの水を取って一気に飲んだ。

夢を見ていた。嫌な夢だったな、と篠原は思った。正体不明の、とてつもない怪物に追いかけられながら、逃げようとしても足が動かない。疲れてうたた寝をした時によく見る夢だが、今の篠原には、それが現実と重なって見える。

「怪物か・・。いったい何が起きようとしているんだ。」

篠原は、そうつぶやくと、窓際にあるソファーに身を投げ出した。

あれからロバートは、彼が知っている限りの話を、他言無用の注釈つきながら、篠原に教えてくれた。それは彼らの研究プロジェクトが、いかに複雑な政治的状況におかれているかを示すものでもあった。

当初、彼がインテリジェントモバイルコードについての論文を発表した直後、あるベンチャー投資会社が彼に、この技術の商品化のための起業を持ちかけてきた。シリコンバレーエリアではかなり名の通った投資会社(Q社としておこう)が、この起業のために、まず2千万ドルを、そして、その後の増資における投資家集めを全面的に支援すると言ってきたのである。かねてから、いずれ起業をと考えていたロバートは、ベンチャー経営の経験がある経営者探しと、彼自身がCTO(技術担当役員)の立場で参加することを条件にこれを受けることにした。

後日、彼はQ社の会合に呼ばれ、彼の構想についてのプレゼンテーションを行ったのだが、彼は、それはかなり異様なものだったという。参加者は5人、しかし、そのうちの2人は彼とは面識がなく、名前すら明かさなかった。しかも、その2人は技術についてロバートすら驚くほどの知識を持っていて、その質問は非常に的を射たものだったという。2時間ほどのプレゼンが終わると、その2人は、軽く会釈をして部屋を出て行った。Q社の担当者に聞いても、「後々、役に立つ人たちだから気にするな」としか言わなかったそうだ。

さて、人集めには苦労したが、ようやくベンチャー企業S社が立ち上がり、活動を開始した直後、M社が彼らに接触してきた。いわゆる「ステルスモード」、つまりコンセプトから具体的な製品化をするまでの間、一部の投資家やパートナー以外には情報を公開しないで密かに活動を進めるベンチャー企業、を彼らがどのようにして知ったのか。その問いに関しては、M社が情報提供者の利益に反するとの理由で一切明かさなかった。M社との交渉はなかなか困難なものだったようだ。もともとオープンソース的発想でプロジェクトを考えていたロバートたちにとって、その対極にあるとも言えるM社の文化は受け入れがたいものだったに違いない。有力技術の囲い込みがM社の戦略だったし、買収されて飼い殺された技術も数多いから、ロバートたちの警戒感も強かったのだろう。一旦決裂しかけた交渉だったが、間に入ったのがQ社だった。彼らはどうM社を説得したのか、M社製品ベースでの開発を先行させるかわりに、後のオープンソース化、他のプラットホームへの対応を認めさせ、なおかつ全面的な技術協力と、段階的な増資への継続支援を引き出してきた。Q社以上の資金力を持ち、場合によっては主導権を奪われかねない相手に対してである。その過程でどのような話がなされたのか・・・、それはロバートも知るところではない。

開発が本格化すると、M社は数名の技術チームを送り込んできた。彼らは驚くほど優秀な技術者だったし、基本となる技術を完全にマスターしていたから話は早かった。JRCMの開発はソフトウエアと並行して設計チームが進めていたが、彼らも、ソフトウエアとのインターフェイスについてこのM社チームからは多くのアイデアをもらったようだ。JRCMの開発はいくつかの技術的困難に直面して遅れ気味だったため、M社チームは、ソフトウエアによるエミュレーションを提案してきた。それは、彼らの次期OSのリリースに間に合わせるためだったが、ロバートには彼らが実装をそこまで急ぐ理由が理解できなかった。コストはすべて負担する、というM社に押し切られる形で、ソフトウエアによる実装を先行することになったが、不思議なことにM社は、それを実装しながらその事実を公開していない。API(アプリケーションからその機能を利用するためのインターフェイス)がまだ確定していないという理由なのだが、それならば次のサービスパックで実装しても遅くないはずだ。これはロバートのみならず、篠原から見ても不思議な動きである。ロバートも本心では、このM社の動きに
なんらかの「隠された意図」を感じ取っている。ユーザが使えない機能を、敢えて、そのためのコストとリソースをつぎ込んで製品に組み込む理由など、普通に考えればないはずだ。しかも、そこに今回の事件である。日本で起きた騒ぎは、おそらくはもっと大きな、そしてより重大な一連の流れの中の、ごく一部なのだろうか。

あまり、踏み込みたくないのだが、ロバートにこのような話まで聞かされてしまい、すでにどっぷりと腰まで浸かってしまった自分を省みると、篠原は複雑な気持ちだった。もしかしたら、ロバートは計算ずくで篠原をこの件に引きずり込んでしまったのかもしれない。しかし、今となってそう考えても後の祭りだった。なぜ、Q社はロバートに製品化を持ちかけたのか、それは単なるベンチャーキャピタル特有の投資行動なのか、それとも何か別の意図があるのか。M社はどうしてS社の存在を知ったのか、また、何を意図して彼らに接触してきたのか。Q社とM社はいったいどのような折り合いをつけたのか・・・。考えれば考えるほど、いやな感じが漂っていて、篠原は途中で考えることを放棄した。

たまったメールに返事を書き、ふと時計をみるともう朝の5時。外はまだ闇の中だが、もう朝が近い。寝なければ・・・と彼は冷蔵庫の上のミニボトルをグラスにあけ、ペットボトルの水で割ると、ぐいっとあおった。どうせ今日の予定は午後からだ。昼まで寝ていても問題はない。

おっと・・・、と彼はドアの所へ行き、Do not disturb と書いたタグをドアの表に貼り付けた。こちらのホテルのハウスキーピングは容赦がない。これを張っておかないと、最悪の場合、8時過ぎにはたたき起こされることになる。

彼は、ベッドに戻り、そろそろ回ってきた酔いに身をまかせた。漠然とした思いがいくつか湧いては消えたが、いつしか眠りに落ちていった。


午後1時、篠原はサンフランシスコのダウンタウンへ向けて車を走らせていた。本当ならば、この時間には、彼の教え子とダウンタウンで会っているはずだったのだが、不覚にも寝坊してしまったのだ。折しもダウンタウンの手前の101号線は渋滞中、携帯で連絡を取って遅れることは伝えたものの、彼の気分は冴えなかった。

フィッシャーマンズワーフにあるレストランで、遅めの昼食を一緒にとるはずだったのだが、このぶんだと、あと小一時間はかかりそうだ。相手が教え子では、なおバツがわるい。おまけに腹も減ってきた。篠原は少しいらだった様子で車のハンドルを揺さぶった。

市街地に入ってからは、思ったほど混雑はひどくなかったものの、目的の場所についたのは、篠原の予想通り、午後2時近くだった。

フィッシャーマンズワーフは、サンフランシスコ港の40番埠頭あたりの一角だ。このあたりは、ベイクルーズやアルカトラズ島クルーズの乗り場があったり、ケーブルカーの乗り場があったりと、全米1の観光地を自負するサンフランシスコでも、最も観光客が集まる一角である。

(写真は好天だが、実は1月頃だと、天候が悪いことも多いのだが・・・・)

「先生、お久しぶりです」

ウエイトレスに案内されて、あたふたと登場した篠原に、若い日本人の男が声をかけた。

「いやぁ、すまない。時差ぼけで寝坊してしまって」

「あはは、しかたがないですよ。昨日こちらに着かれたばかりでは」

若い男は笑いながらいった。

「お腹がすいたんじゃないですか?、早速なにか注文しましょうよ。」

「そうだな、何か軽いものがいいよ。今夜はパーティーだしね。そうそう、クラムチャウダーはあるかな。」

「ありますよ。お皿がいいですか、それともパン?」

「そうそう、あのパンをくりぬいたのに入った奴がいいな。」

フィッシャーマンズワーフでの昼食でクラムチャウダーはおすすめのひとつだ。それも、丸いフランスパンみたいのを(筆者はこういう表現しかできないのだが)くりぬいて器をつくり、その中にクラムチャウダーを入れたものがおすすめである。

「サラダは?」

「そうだね、シーザーでも一つたのんでシェアするか。」

アメリカでシーザーサラダをナメてはいけない。かなりの量があるし、大量のチーズがかけられてるから、結構重い。実際、米国人の中にはこれだけで昼食をすませてしまう奴らもいるので、要注意である。大きさを確認して、2人くらいでシェアするのが一番賢い食べ方かもしれない。

「そういえば鈴木君、君たちのアイデアに対する評価はどうだ。」

「上々ですよ。特にグリッドコンピューティング関連の人たちが、かなり注目してくれてます。」

「そうか、汎用的にピア・ツー・ピアのネットワークを構築できるミドルウエアの用途は広いからね」

「特に、P2P技術を商用で使うときは、どのようにしてネットワーク全体を完全に制御下におくか、という点が重要になりますから、すべてのノードに対する集中管理機能を含めたパッケージは、魅力的なようです」

専門外の読者向けにすこし解説するならば、ピア・ツー・ピア(Peer to Peer, 略して P2P)の技術は、最近インターネット上で、音声や画像通信などの広域ネットワークを構築するための技術として注目されているものだ。従来のクライアント・サーバ型のモデルは、サーバと呼ばれる機器が中心となって構成されているため、ネットワーク全体の性能がサーバの性能によって制限されるほか、サーバの障害で全サービスが停止するという問題があった。P2Pは、サーバをなくし、そのネットワークの処理を、いわばそれぞれのユーザのPC(ノードと呼ぶ)が直接通信相手との間で行うような形に変えたものだ。もちろん、ネットワーク全体の制御機能は、各ノードが必要に応じて分担する。これによって、一部のノードがダウンしても全体に影響を与えないだけでなく、理論上は無限に大きなサービスネットワークを構築できる。しかし、この技術は、ネットワーク全体の制御が困難で、たとえばネットワーク全体のサービスを停止させたり、特定の処理をさせたりすることが一般に困難だ。有名なwinnyは、P2P技術のすばらしい応用例であると同時に、こうした制御機能を実装できなかった(しなかった?)が故に、不正なファイルの流通を制御できなくなってしまうという問題が生じた典型的な例でもある。

「さらに、このまえ先生にもメールでお送りしてますが、あれは結構反響がありましたよ」

「処理をネットワーク制御チップと一体化しよう、って奴だな」

「そうです。IPv6ベースのTCP/IPスタックを含めて1チップにまとめて、NICに組み込んでしまうことで、たとえば家電系のシステムや、IP携帯電話などにも、簡単に組み込めるわけです。これがうまくいけば、PCと家電、携帯などをシームレスに繋いだネットワークアプリケーションの開発が容易になります」

IPv6とは、インターネットの通信の基本的な手順(Protocol)であるIP(Internet Protocol)のバージョン6、つまり執筆している現在で最も新しいバージョンだ。普及期のインターネットにおいては、バージョン4、つまりIPv4が使われていたが、普及と共に家電系など様々なものがネットに接続されるようになり、より多くの機器を接続できるように改良する必要が生じた。IPv6は執筆時点ではまだ一般的にはなっていないが、おそらくこの頃には家庭にまで入り込んでいるだろう。TCP/IPは、本来の意味はさておき、IP手順の上に実装された、さらに、より細かい通信制御手順を含めたインターネット上の通信手順の総称として使われることが多い。

「しかし、そうした領域には多くのメジャープレイヤーがしのぎを削ってるから、簡単ではあるまい。少なくともデファクトにならないと市場には受け入れられないだろう」

「たしかに、でもそれも実は・・・・・まだ内緒ですけどね、実は内々に、ある2つの会社からアプローチがあるんです。どこだと思います?」

「うーん、どこだろ。たとえば、M社とかなら、デファクトにしてくれる可能性が高いけどな・・・」

「当たりです」

「なんだって、本当か?。すごいじゃないか。もう一社は?」

「I社ですよ」

「冗談だろ、ソフトウエアとMPUチップの両巨頭がこぞってアプローチしてきたというのか?」

「ビジネスの話はこれから詰めるのですが、アプローチがあったのは事実ですよ」

「しかし、彼らはどうやって君たちの技術を知ったんだ。直接持ち込んだのか?」

「実は、来年、順調にいけば次のラウンドでの増資を考えていて、その出資者を探す過程で、あるベンチャーキャピタルから紹介を受けたんです」

「あるベンチャーキャピタルっていうと?」

「先生もご存じでしょう。Q社ですよ。」

「なんだって、Q社が?」

「ええ、どうやら我々の技術には、米国の国防系も注目してるようです」

「国防系?」

「あれ、ご存じないんですか?。Q社は政府系、ありていにいえばCIAの息のかかった投資会社ですよ。これは有名な話ですけど」

「なんだって?、そりゃ知らなかった。」

(ここでCIAを持ち出すのは薄っぺらだと思う読者のために付け加えるならば、CIAが出資するためのベンチャーキャピタルは米国には実在する。多くの企業が出資を受けているのも事実である。)

「たしかに、P2Pのネットワークは極めて冗長性が高いし、柔軟だから、きちんと制御できて安全が確保できれば軍事用として利用価値が高いんだろうけど・・・しかし・・」

「どうしたんですか?」

「いや、ちょっと別件でQ社がからんでいてね。まさか、CIAが資金源だとは思わなかったが。」

「へぇ、たしかにQ社は手広いですからね。色々なところに投資してる。特に9/11以降はセキュリティ関連への投資が目立つようですが。」

「あいつ、わざと俺にそのことを・・・・」

「え、どうしたんですか?」

「いや、なんでもない」

篠原は思った。ロバートはそんなことは一言も言わなかった。鈴木は有名な話だと言ったから、もしかしたらそんなことは知っていると思って敢えて触れなかったのかも知れないが、勘ぐれば、篠原をより深みに引き込むために敢えて話さなかったとも言えそうだ。今回もQ社とM社、そしてI社まで?、S社の場合も、もしかしたらM社を引き込んだのはQ社なのか・・・、だとすれば、これは米国政府もからんだ事件ということだ。これは、かなり慎重に動いた方がよさそうだな。

「何か気になることでも?」

鈴木がいぶかしげに聞く。

「あ、いや・・・・、ところで奥さんは元気かい」

篠原は唐突に話を変えた。なんとなく状況がわかった以上、彼をまきこむわけにはいかない。

「ええ、もう元気すぎて困ってますよ。近所に仲のいい奥さん達も増えたみたいで、最近、何を吹き込まれたのか、そろそろ子供が・・・とか言い出して困ってます。」

「いいじゃないか、君もそろそろ子供がいても不思議じゃない歳だし」

「そうなんですけどね、もうすこし会社が落ち着くまでは・・・・と。」

「そんなこと言ってたら、いつまでたってもできやしない。思い立ったが吉日だと思うがね。」

「あはは、やめましょう。この話は・・・」

それからは、とりとめのない世間話が続いた。しかし、篠原の気分は重くなる一方だった。この騒ぎはいったいどこまで大きくなるのだろうか。自分の手に負えるのか。昨日見た悪夢が篠原の脳裏をよぎった。

続く

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