2.再会

どれくらい眠っただろう。突然、キャビンの灯りがつけられ、篠原は目が覚めた。窓の外の空は、すでに白み始めている。時計は午前7時過ぎ、実際、日本時間ならば真夜中の0時をまわったところだから、まだ寝ていたいところだが、朝食サービスはそんな乗客の都合などおかまいなしに、到着2時間前には始まってしまう。だいたい、夕食自体がそこそこの量だったから、空腹になろうはずもないのだが、こんな時、日本人は貧乏性なのか、無理矢理たいらげてしまう。

「これをやるから海外出張から帰ると体重が増えるんだ」

そう思っても、子供の頃から食べ物を残すことに対し強い罪悪感を植えつけられている彼らの世代は、ついつい出されたものをすべて食べきってしまう。しかし、そういう躾は米国ではあまり健康的とはいえない。そもそも、体格的に見て、篠原たちの世代の5割増しくらいの連中の食欲を満たす料理を残らず食っていたら、無事ですむはずもない。サンフランシスコ、ニューヨークといった地域では、今ではレストランの食事のボリュームもさほどのことはなくなってはいるが、テキサスあたりでレストランに入り、ステーキなんか注文しようものならば、あとで大いに後悔することうけあいだ。ただ、よく観察していると、米国人といえど、皆が全部食べきれるわけではない。多くの人たちがかなりの部分を食べ残しているのだ。つまり、人種のるつぼたる米国では食事の量は、最も喰う連中が満足する量が標準で、多ければ残せばいい、というのが常識なのである。一方、わかってはいても、「もったいないお化け」に脅されて育った日本の中年以上の世代にあっては、食べ物を残すというのは簡単ではない。ついつい食べて、あとで後悔するわけである。

「しまった、食い過ぎた」という後悔は先に立たず、ふくれた腹をさすりながら窓の外を見ると、遠くの雲に朝日が反射して赤く染まっていた。入国書類を確認し、それにサインを書き込む頃には、飛行機は次第に高度を下げ始め、やがて眼下に北カリフォルニアの海岸線が見えてくる。天気がよければ、しばらく南下すると、左手にはサンフランシスコの高層ビル群と入り組んだ湾が姿をあらわす。湾の入り口には、サンフランシスコのシンボルともいえるゴールデンゲートブリッジ、そして、サンフランシスコと対岸のオークランドを結ぶベイブリッジも上空から確認することができる。ただし、この光景は左側の窓越しに座っている乗客でなければ味わうことができない。実際、篠原は右側座席だったから、この光景を見ることはできないのだ。おまけに、この日のサンフランシスコは少々天気が悪かった。

ともあれ、飛行機は、サンフランシスコを一旦飛び越え、丁度、シリコンバレーと呼ばれる地域の上まで南下する。サンノゼ市(かつては、サンホセと呼ぶ人が多く歌にもなったが、最近ではこの地域に住む人たちの発音に近いサンノゼという呼び方をする日本人が多い。実際は中間的な発音なのだが・・・)をかすめて大きく左旋回し、そのままサンフランシスコ国際空港へのグライドパスにのる。そして静かにサンフランシスコ湾上を降下し着陸する。

サンフランシスコ国際空港は、サンフランシスコの少し南側の湾岸に位置する。巨大な空港が多い米国にあってはそれほど大きい空港でもないが、それでも3つの国内線ターミナルと1つの国際線ターミナル。4本の滑走路を持つ大空港だ。2001年にリニューアルされた国際線ターミナルをかわきりに、大規模な改装が行われた。各ターミナルとガレージ、レンタカーセンターはエア・トレインと呼ばれる新交通システムのトラムで結ばれ短時間で行き来ができるほか、BARTと呼ばれるサンフランシスコの近郊鉄道が乗り入れているため、ダウンタウンへも20分程度で行くことができる。ダウンタウン中心に活動するならば、BARTと市内交通をうまく使えばレンタカーを借りる必要はない。しかし、シリコンバレー地域をまわるのならば、レンタカーは必須だろう。

篠原も今回はレンタカーを借りることにした。学会参加ならば、サンフランシスコのホテルだけですべてが終わるのだが、今回の訪問先はいずれもシリコンバレー地域にある。この地域は車がないと身動きがとれないのだ。飛行機を降りると長い通路の先に入国審査場がある。日本人でごったがえしている入国審査を抜け、手荷物を受け取ってから税関申告書を係に手渡して、大きなドアを抜けると到着ロビーに出る。それから一つ上の階にある出発ロビーに上がり、出発カウンター横のエスカレーターを登って空港内のエア・トレイン駅に上がる。そして、そこからレンタカーセンターまでトラムに乗る。レンタカーセンターの駅でトラムを降りるとそこは4階、正面が各レンタカー会社のカウンターになっていて、これはなかなか便利がいい。手続きを済ませるとそのまま階下に降り、指定された場所にある車をピックアップするという寸法だ。

空港内は縦横無尽に道路が走っていて、初めての人にはいささか複雑だが、案内板さえちゃんと読めればまず問題はない。米国でレンタカーを借りようという人は、あらかじめこうした案内板の表現を勉強しておくことを強くおすすめする。ともあれ、篠原も普段レンタカーをあまり使わないため少々とまどったが、案内板どおりに湾岸の幹線道路である、101号線に入り、南を目指して走り出した。

カリフォルニアといえば、多くの場合、抜けるような青空と強い日差し、からっとした快適な気候を想像しがちだが、この時期は残念ながら雨季にあたり、天候はあまりよくない。12月ごろから3月までは、だいたい天気が悪い日が多く、雨も降る。特に雨季のはじめは大雨や嵐となることも多い。そもそも、この地方の人はこうした天気にあまり慣れていないから、大雨なんか降ろうものなら交通は大混乱する。幹線ハイウエイといえば、我々日本人はきれいな高速道路を想像するが、米国では「フリーウエイ」の多くは無料道路でもあり、メンテナンスにも日本ほど金をかけていないようだ。従って、道路は想像以上に悪い。舗装はかなり痛んでいる所もあるし、雨が降ると水たまりもできる。雨の日の運転は本当に要注意だ。時々、落下物やゴミとおぼしきものがハイウエイ上に転がっているから、これも気をつけておく必要がある。

この日も時折、雷とともにシャワーのような雨が降る、あいにくの天気だった。篠原は前を行く車が跳ね上げる泥水に辟易としながらも、車を走らせ、30分ほどの距離にある街の大学構内に車を停めた。最初に訪ねるのは、学生時代の友人、ロバート・チャンである。

出迎えてくれたロバートは、白髪が増えてはいたが、10年前とさほど変わってはいなかった。彼は現在、この大学のコンピューターサイエンス研究センターの教授である。そして彼のここ10年ほどの研究の多くが、コンピュータに対する攻撃的ソフトウエアについてのものだった。

コンピュータネットワークに対してリスクを生じさせるようなプログラムの存在自体は古くから議論されていた。しかし、1988年のインターネットワーム事件でそれが現実のものとなったとき、その事実は関係者に大きな衝撃をあたえた。この事件が、今やコンピュータセキュリティを知るものならば誰もが知っているCERT/CCすなわち「コンピュータ緊急対応チーム・コーディネーションセンター」と呼ばれる組織が作られるきっかけとなったのだった。

コンピュータウイルスは、早い時期からネットワークに接続される以前のパーソナルコンピュータを脅かしてきた。それはプログラムに寄生し、そのプログラムのふりをして、他のプログラムやコンピュータの基本的な制御をつかさどるオペレーティング・システム(OS)に感染し、それらがウイルスを他のシステムに媒介する。フロッピーディスクなどでプログラムを交換すると、それに寄生したウイルスが新しいコンピュータシステム内にコピーされる。そのプログラムを新しいコンピュータ内で実行するとウイルスは活動をはじめ、システム内に感染を広げていくのだ。

PCがネットワークに接続されるようになり、さらにそれがインターネットに接続されるようになるとウイルスは新たな拡大手段を手に入れる。電子メールである。電子メールは文章だけではなく、様々なデータ、プログラムの交換にも広く利用された。メールには本文以外にファイルを添付することができる。このファイルは種類を問わない。プログラムや各種のデータ、たとえば画像や音声、なども添付することができるし、当然ながらこれらにはウイルスを組み込むことができる。メールによって媒介されるようになったウイルスの作者たちが最初に考えたのは、ウイルスをさらにメールを使ってより多くの相手に拡散させることだった。そこで、ウイルスは発症するとメールソフトが保存しているアドレス帳や過去のメールからメールアドレスを抜き出し、それらの相手にウイルス付きメールを大量に発信するという機能を持つようになった。だが、初期のウイルスは、たとえば送られてきたメールの添付ファイルをユーザが開くなり実行しなければ発症することはなかった。

やがて様々なマルチメディアのファイルが電子メールで交換されるようになると、電子メールソフトはそれらを標準的にサポートし、たとえば電子メールに添付されたファイルがどのような種類のものかを自動的に判断して、メール本文を開いた際にそれぞれの種類のファイルに応じた処理を自動的に実行するようになった。

しかし、利便性ばかりを追求すれば無意識に守りは甘くなる。ウイルスの作者はそれに目をつけた。実際、いくつかの人気メールソフトには、添付ファイルを自動実行する機構にウイルスにつけいられるような不具合(バグ)が存在した。作者はそれをうまく利用して、本来自動実行してはいけない形式のウイルス付きファイルを自動実行させるような仕掛けを組み込んだウイルスを作り、インターネットに放ったのだった。結果は悲惨なものだった。「添付ファイルを開かなければウイルスには感染しない」という常識が打ち破られてしまったのだ。メールの本文を見ただけでウイルスに感染し、大量のウイルス付きメールが自分のPCから送信されてしまうのである。そのウイルスは驚異的な広がりを示し、インターネットを利用する企業、組織に大きなダメージを与えた。こうしたバグは修正されたが、これは一種のセキュリティホールである。また、今後新しいソフトウエアが出るたびに、ユーザはこのようなバグの不安におびえることになる。

だが、電子メールによって媒介されるウイルスは、少なくともそのメールを読むという動作を人間が行わなければ感染しない。従って、このようなウイルスの拡大速度と人間の活動の速度の間には相関関係が存在する。いいかえれば、電子メール感染ウイルスの感染速度は人間の活動速度によって制限を受けているといえる。だから、今では導入することが常識となったウイルス対策ソフトのメーカーは、新しいウイルスに対する対応を数時間という単位で行えれば優秀だとされていた。もちろん、こうしたウイルス対策技術はあくまで後手の技術である。登場したばかりの新種のウイルスに対しては、メーカーがパターンファイルと呼ばれるウイルスの定義データを更新しない限りは対応できない。しかし、ウイルス感染速度が人間の活動によって制限されていたため、数時間のタイムラグがあっても、大多数のユーザはその恩恵を受けることができたのだ。

一方、インターネットワームはこの点が違っていた。1988年のインターネットワームは一晩で6000台あまりのコンピュータに感染した。当時の実験的なインターネットの規模や通信速度を考えれば驚異的な数字である。おまけに、このワームは感染を広げるのに人手を介することがない。人間の活動速度により規制を受けないため、真に、コンピュータとネットワークの速度で感染を広げることができる。これが、CERT/CC を急いで作らなければならなかった理由の一つであったのだろう。

いまや、インターネットは巨大なネットワークインフラとなり、通信速度も当時に比べれば4桁から5桁向上している。コンピュータの処理能力向上は圧倒的で、当時の大型計算機なみの計算能力がポケットに入る時代だ。この時代におけるワームの脅威は当時の比ではない。実際に2000年頃から多くのワームが出現し、そのたびに大きな影響や被害をもたらしてきた。ウイルス対策ソフトメーカーがどれだけ頑張っても、新しいパターンファイルが供給された頃には多くのコンピュータがワームの犠牲になってしまっている。もはやこうしたワームに対してはウイルス対策ソフトはワームを駆除するための事後対応策としかなりえない存在になってしまったと言っても過言ではあるまい。では、対策はないのか。

このようなワームの多くが、すでに公知となっているセキュリティホール(コンピュータに侵入を許してしまうような形での悪用が可能なソフトウエアのバグ)を利用している。ワームの作者がそのセキュリティホールを発見するケースは少なく、多くの場合、作者たちが利用するのは公知となって対策もわかっているセキュリティホールだ。にもかかわらず、彼らが成功をおさめる理由は、多くのユーザの怠慢もしくは無知ゆえである。メーカーからセキュリティ問題が報告される時には、そのメーカーは対策を準備している。そうでないと報告そのものが二次被害をもたらしてしまいかねない。従って、こうしたセキュリティ問題が報告された直後にメーカーが推奨する対策を講じておけば、多くの場合、ワームの被害を免れることができる。このことを知らないか、知りながらも対策を講じないユーザがいかに多いか、ということがこの問題の本質である。

しかし、このような大量拡散型ワームによる無差別攻撃、いわばネットテロリズムとは別に、より深刻な問題があることはあまり知られていない。こうしたワームが発見されるのは、その派手さゆえである。もし、まったく表に出ず、狙った範囲にしか拡散せず、さらに一定時間で消えてしまうようなワームが作られたとしたら、誰が見つけられるだろうか。特定の攻撃対象を正確にねらい打ちするような、ピンポイント爆弾的な攻撃ワームやスパイワームは、表沙汰にはならないが、確実にどこかで使われているに違いない。今回、篠原が経験したものは、まさにそういう種類のものだった。それを発見できたのは単純に運がよかったとしか言いようがない。そして、それを作った連中は、きわめて高度な技術と限定された目的を持っているに違いなかった。その目的とはいったい何だろうか。

ロバート・チャンは最近の彼の論文の中で、こうしたワームによる攻撃の危険性について、改めて触れていた。彼ならば、最近の実例を含めて色々と知っているに違いないと篠原は思ったのだった。

10年ぶりに会った初老の東洋系科学者は、満面の笑みを浮かべて手を差し出した。

「タカシ、また会えて嬉しいよ、元気にしていたか」

彼は篠原の手を強く握ってそう言った。

3.嵐の予感 へ

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