1.闇の向こうに

ゴーッという腹の底に響くエンジン音がにわかに高まり、体がぐっとシートに押しつけられた。すでに夜のとばりの降りかけた窓外を赤や白、青のライトがどんどん加速しながら流れていく。篠原はこの瞬間がたまらなく好きだった。

太古の昔から、人は空にあこがれ続け、そのあこがれはやがて、飛行機という人の歴史を大きく変える発明を生み出した。そして人は今、その飛行機に乗って海を越え、大陸を越えて旅をする。長い間、縛り付けられていた大地への鎖を断ち切って。

光の流れはさらに速さを増していく。やがて軽いショックとともに、ふわっと体がもちあがる。その瞬間、窓の外には信じられないような美しい夜景が広がっていく。それは人が大地の呪縛を振り切った瞬間への祝福のようでもあった。太平洋を越える9時間あまりの旅が始まったのだ。

550人もの乗客をのせていることを、まったく感じさせないくらいに、このスカイクルーザーは軽々と空に舞い、どんどんと高度を上げていく。薄い雲を抜け、遠くに東京の夜景と眼下にかすかな明かりのシルエットとなった九十九里の海岸線を見下ろしながら、さらに高度を上げていく。総重量500トンを越える巨体を軽々と持ち上げる4基のターボファンジェットエンジンはそれぞれ最大30t以上の推力をたたきだす。2年ほど前に就航したこの機体は、20年以上も使われた競合メーカーの機種を大幅にこえる、国際線仕様でも定員550名の搭載能力と総2階建て、機内にはラウンジも完備の快適さを売り物としている。一方で、速度はマッハ0.89と従来機並み。亜音速機の開発による高速化で時間短縮を狙う競争相手とは対照的に、大量輸送によるコスト軽減と快適さの向上をはかる戦略だ。

夕暮れの残照に照らされた2層の雲を抜け、やがて何度か左に旋回した機は、目的地サンフランシスコへの大圏コースに乗る。やがてベルト着用サインが消され、機内の照明が明るくなり、早めの夕食のサービスがはじまった。

ところで、このビジネスクラスの2階窓際席に座る人物を紹介しておこう。篠原孝、50歳。彼はK大情報工学科の教授職にある。専門は情報通信ネットワーク、とりわけインターネットを基盤とした通信サービスを実現するための通信プロトコル(手順)についての研究だ。この分野では学会のみならず、産業界やインターネットに関する技術コミュニティーにおいても、かなりの影響力を持っている。

その篠原が、正月明けまもないこの時期に機上の人となっているのには、いくつか理由がある。第1の理由は、昨年、彼の研究室の卒業生がシリコンバレーに設立したベンチャー企業の訪問である。彼自身、その会社のアドバイザー役としてボードメンバーに名を連ねているのだが、ようやく資金もある程度あつまり、実際の製品化に向けて開催されるキックオフミーティングに参加するためだ。もう一つは、現地の大学にいる旧知の友人を訪問することだった。ロバート・チャン、中国系移民を両親にもつ彼は、日本留学中、篠原の同期生だった。大学院を卒業後、篠原はK大に残ったが、彼は米国に帰国し、現地の大学の研究者となった。以前に米国の学会でばったり会って以来、もう10年以上会っていないが、メールのやりとりだけは、ずっと続いていた。

今回、篠原が彼に会おうと思った理由のひとつに、彼が長年にわたってコンピュータシステムやネットワークのセキュリティについて研究していて、米国でも第一人者として高く評価されているという点がある。実際、篠原はひとつ頭の痛い問題をかかえていた。昨年末に篠原の研究室の管理下にあるサーバが何者かによって侵入され、さらにそのサーバを踏み台にして日本のハイテク企業が攻撃されるという事件があったからである。正月返上で原因調査を行ったのだが、侵入者がどのようにしてサーバーに侵入したのかという点を含めて、多くが謎のままであった。篠原自身はコンピュータネットワークのアーキテクチャと通信プロトコルといった、いわゆる「ネットワーク畑」が専門だし、興味はこれまで常に、いかに大量の通信を素早く、確実に行うかという点に注がれてきた。いわゆる「セキュリティ」も多少はかじったものの、ともすれば、「快適さ」を犠牲にせざるをえない「セキュリティ」に、内心では多少の嫌悪感があったのも正直なところだ。しかし、現実にこのような事件が起きてしまったのだから、篠原も真剣に考えざるを得なくなった。侵入者は特殊なプログラムを使ってある企業に侵入し、その内部情報を盗み出した。そして、その情報を、こともあろうに篠原研究室のサーバに一旦転送して、そこからまんまと持ち出していったのだった。当然、侵入された企業からは研究室のサーバとの通信しか見えない。普通ならば、大騒ぎになるところだったが、幸いなことに研究室の学生にその企業で研修中の者がおり、いちはやく現象を見つけて連絡を入れてくれたのだ。以後、篠原は企業側と連絡をとりながら問題解決にあたっている。しかし、問題は非常に複雑だった。いわゆる「ワーム」に分類されるこのプログラムは、企業のサーバに感染したあと、それを仲介役に、きわめて特殊な方法で二次感染を引き起こしていた。同じような手法が篠原研究室のサーバにも使われたことは間違いないのだが、それを突き詰める方法が思い当たらない。こうした追跡調査は若い学生たちが得意としているが、彼らも1週間ほどの調査の後にお手上げ状態になってしまった。サーバがどのようにして侵入者の手中に落ちてしまったかがわからないのだ。このままでは、関係者を疑わざるをえなくなってしまう。

「魔女狩りはごめんだ。」

しかし、篠原は実際苦況にたたされていた。外部からの侵入の事実が証明できない限り、内部犯行を疑わざるをえない。そこで思いついたのがロバート・チャンだった。ロバートはセキュリティに関する第一人者で、特に、ウイルス、ワームといった悪性プログラムについて多くの論文を残している。ここはひとつ彼の知恵を借りるしかない、と思った篠原はロバートにメールを書き、ロバートは彼の訪問を快諾したのだった。


篠原は窓外に目をやった。もう街の灯も見えない。月明かりにうっすらと照らされた雲が見えるだけ。機はすでに巡航高度に達して水平飛行に移っている。それにしてもおだやかなものだ、と篠原は思った。目の前のテーブルに置かれたグラスのワインには、ほとんど波ひとつ立たない。

「新幹線だってもっと揺れるぞ。」
そう思うと不思議だった。飛行機についての物理法則は充分に知っていた。子供の頃の夢はパイロットになること。結局果たせなかった夢だったが、今になっても航空機への興味は変わらない。この機種についても、おそらく知識は、そこいらの航空評論家に負けないにちがいない。しかし、こうして自分がいざ機上の人になってみると、まったく違った感覚に襲われるのだった。実際、目的地に着いて、あらためて自分が乗ってきた飛行機を見たとき、彼はいつも不思議な感覚に襲われる。

「よくこんな鉄の塊が空を飛んできたものだ」

彼にしてみれば素直な感想、とでも言うべき言葉だったが、彼の脇でそれを聞いた人には奇妙に聞こえるらしい。ほとんどの人が、「大学教授の言葉とは思えない」と失笑する。でも、それは彼の本音である。彼は目をつぶって、新幹線の揺れを思い出し飛行機に置き換えてみた。ちょっと身震いがした。気流が安定しているときの飛行機は、それほどまでに静かだ。まぁ、荒れたときは運が悪かったとあきらめるしかないのだが・・・。

「何かお飲み物をお持ちしましょうか」

篠原はアテンダントの声で我にかえった。

「いや、結構。ありがとう」

彼は窓の外にまたちょっと目をやり、軽いため息をついた。成田を出て、そろそろ1時間半になる。彼は、時計を米国西海岸時刻に合わせた。機上の夜は短い。早めに現地の時間感覚に切り替えて、うまく睡眠時間を調整したいので、いつも彼は離陸後まもなく時計を合わせるのだった。この時期の時差は17時間。17時間遅れだから、奇妙な話、当日の夕方に日本を出たのに、その日の朝に現地に着く。1日の差を除けば、逆に7時間進んでいると考えた方が感覚的にはわかりやすい。だから、実際に機上の夜は本来よりも7時間短いわけだ。

食事の片づけが終わると、篠原は鞄からPCを取り出した。一見、雑誌くらいの大きさ、厚さだが、これはれっきとしたPCである。PCというよりは、薄型の高精細度液晶パネルにMPUと必要な装置が内蔵されてしまったような感覚の製品だ。当然、可動部分はなく、従来のハードディスクは大容量の半導体メモリにおきかわっている。こんなものだが、MPUのクロックは3.6GHz、8個のスレッドを並列処理できる最新型である。おまけに、消費電力は極めて低く、熱もあまり持たない。バッテリーはシートタイプの薄型だが、これから目的地に着くまで使い続けたとしても切れることはない。いわゆるタブレットPCとして使うことができるのだが、篠原はオプションのキーボードを持ち歩いている。このキーボードがまたなかなかのもので、PC本体のスタンドとしての役割も兼ねている。このPCには、昨年末にリリースされた最新版のOSが搭載されている。このOSは起動時間を極限まで短くしているため、電源を入れるとほぼ同時に使用可能になるのだ。以前のラップトップは電源を入れてから起動するまでに数分を要したために、ちょっとメールを・・・などと思った際には、かなりイライラさせられたものである。一方、起動の速いのが売り物のPDAはその表示画面の小ささから、ラップトップの代用品にはなりえず、また、携帯電話によるメール。インターネットの利用が早くから浸透した日本では、きわめて中途半端な存在で、いわゆる電子手帳の域を出ることができず、一部のマニアに喜ばれたのみで普及しなかった。

さて、この飛行機にはワイヤレスLANが導入されている。少し前までは、飛行機内でこの種の機器はご法度だった。航法機器に悪影響をあたえるという話だったが、実は最新鋭機ではこうした問題が出ないような対策がかなり以前から講じられていた。だが、旧式機を多く使う航空会社は利用者の混乱をおそれて一律禁止としていたわけだ。しかし、飛行機から衛星回線を通じてインターネットに接続する時代となり、航空機メーカー自身が保証した形でこうした機器が導入されるにいたって、一部の機種では離着陸時以外について、ワイヤレス接続が使えるようになった。

篠原は、届いているいくつかのメールに目を通し、ニュースサイトから最新のニュースとシリコンバレー地域の週間天気予報を確認すると、PCの電源を切り、鞄にしまった。タイミングを見計らったかのように機内の照明が暗くなった。篠原はシートを倒すとブランケットを広げ、その上からシートベルトをかけて目を閉じた。ゆっくりとした揺れが波間を漂うような感覚となり、眠りを誘った。

窓の外は漆黒の闇、キャビンの外を流れる気流と巡航高度で出力を絞ったエンジンの低い音だけが響いていた。

2.再会

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